叢書論:岩波書店「哲学叢書」「続哲学叢書」の成立過程を事例に
大澤 聡(近畿大学文芸学部)
本発表は、これまで出版史、哲学史、思想史などいずれの研究分野においてもほとんど光があてられてこなかった「続哲学叢書」(岩波書店)の構成内容について、先行する「哲学叢書」とあわせて分析するものであった。発表者が『図書』2017年11月号にて翻刻を行なった三木清の岩波茂雄書簡を紹介することにより、昭和初年代の出版企画の進行プロセス、および「叢書」のもつメディア特性についても検討した。
1915(大正4)年10月、紀平正美『認識論』を皮切りに刊行開始した「哲学叢書」全12冊(1917年8月に完結)の大ヒットが初期の岩波書店の経営基盤を確立し、さらには同社の哲学を基調とするカラーを不動のものにしたことはよく知られている。執筆陣には、紀平正美のほか、田辺元、宮本和吉、速水滉、安倍能成、阿部次郎、石原謙、上野直昭、高橋里美、高橋穣がならぶ(阿部と安倍は各2冊)。巻末「哲学叢書刊行に就いて」に「著者は皆新進気鋭の学者」とあるとおり、下は30歳の田辺や高橋穣から、上でも41歳の紀平までとずいぶん若いラインナップだった。岩波茂雄もまた彼らと同年代だった。
その完結から12年が経った1929(昭和4)年6月、「続哲学叢書」の第1弾として新明正道『社会学』と戸坂潤『科学方法論』が同時刊行される。こちらは言及される機会がほとんどない。巻末の刊行リストによると全12冊を予定してのスタートだったが、見切り発車だったらしく、3冊目となる宇野円空『宗教学』が刊行されたのは2年を置いた1931年9月のことで、しかも1932年4月に三木清『歴史哲学』、1933年7月に長田新『教育学』、以上の計5冊が出たきり、叢書は未完に終わる。その中途半端な経緯と結果に言及の少なさは起因するのだろう。
叢書の企画者は三木清だった。また、成立過程については当時編集部にいた小林勇の回想が知られている(『惜櫟荘主人』)。それによると、岩波茂雄が旧「哲学叢書」の執筆者たちに慎重に相談をもちかけたが、みな「三木清の主張を一せいに反撃した」という。結果的に、「「哲学叢書」に欠けているものを補う叢書を作るということ」に落ちつく。今回あらためて紹介した1926年8月30日付岩波茂雄宛の三木書簡は、その時点におけるおおよそのラインナップの確定状況を丁寧に整理するものであり、3年後に刊行が開始される時点のものと大部分が同じである(にもかかわらず刊行が遅れた理由は、すでに別稿で示したとおり、後発企画「岩波講座 世界思潮」に時間をとられたためだと考えられる)。
「続哲学叢書」の執筆陣は旧版以上に若く、30歳前後の若手に集中していた。三木はこの叢書によって思想界の世代交代、内容刷新を進めようとしていたことがうかがえる。先行する「哲学叢書」はドイツとの時差をはらみながら日本にも訪れていた新カント学派ブームを反映したものであり、同時にそれを促進するものでもあった。また、12冊のうち「多くは西洋の著書によっての解説や講述」にとどまったといわざるをえない(安倍能成『岩波茂雄伝』)。旧シリーズ刊行開始から10年、1920年代後半に日本の思想の趨勢は新カント学派の影響や大正教養主義のブームから脱却し、その鬼子ともいうべき日本型マルクス主義へと移行しつつあった。国内の独自の哲学も発展したこともあり、翻案的な活動からも脱却するタイミングにあった。しかも、おりからの出版大衆化状況の到来によって商業ジャーナリズムは極度に肥大化していき、思想を呑みこんでゆく。そんな知の地殻変動に乗じるかたちで、三木清は同世代と連携しつつ、つぎの時代をまさに編集していた様子を炙り出すのが本発表の眼目である。
前述の1926年8月の書簡には谷川徹三、本多謙三、戸坂潤はすでに「確定、承諾済」と書簡に記されてある。このあたりの面子を次世代の哲学者集団として可視化させることが三木のねらいだったと思われる。その際、シリーズでありながら分売形式をとる「叢書」というパッケージが有効に選択された。独立的な思想でありながら、ネットワーク的な面として新しい思想を展開するうえでそれは最適なメディア特性を有している。そうした野心に満ちた世代交代のあからさまな意図を察知したからこそ、前世代の「哲学叢書」の執筆者たちは新企画に抵抗したのだろう。
今回の発表では、三木が岩波と交わした書簡を紹介しつつ、プランが確定してゆく過程を分析し、周辺のメディアとの比較をとおして「叢書」というメディアのもつ特性について検討した。
質疑応答においては、レジュメに書きながら触れきれなかった、新シリーズが「続」という名称を冠せざるをえなくなったそのタイミングについて、複数の書簡を照合することでひとつの仮説を提示した。また、発表中に言及した「私自身だけは自著への自信をますます失い、何版かには達したが、大正十二年の震災を機会として絶版とすることを書店に申し入れた」という石原謙の証言(『学究生活の思い出』)に関する問い合わせに対して、旧シリーズに部数やクォリティの点でばらつきがあった事実を紹介した。そうした経緯もまた続編が岩波書店側で構想するきっかけにもなったと考えられる。