近世小謡本の編集方法
――京都・大坂・江戸・地方の版元に見る時代的・地域的特色
原 八千代
(法政大学能楽研究所客員研究員)
小謡本は、謡曲の一部分である小謡を100曲から200曲並べた小冊子である。特定の作者がおらず、版元が自分で企画・編集した実用書である。江戸時代を通じて、約350種の小謡本が200軒以上の版元によって刊行された。江戸後期には、小謡本は謡本の刊行量を超えて(図1)、京都だけでなく大坂・江戸・地方でも刊行された(図2)。なぜ小謡本が隆盛したのか。その要因を小謡本の編集方法から探求して、近世出版文化の一側面を明らかにすることが本研究の目的である。今回は、江戸時代の小謡本出版の概況を報告した。
1.時代的特色
小謡本の始まりは、京都で刊行された古活字本『光悦小謡本』を模倣した中本サイズの百番小謡本(寛永5年〈1628〉、刊行者不明)であった。小謡に曲番を付して目録(目次)を備え、本文は平仮名を多用して、子供にも初心者にも使える小謡本にした。以後30年間、これを模倣した小謡本が続出し、万治期(1658~61)に小謡本の初期の形態が定まった。これが大坂・江戸にもたらされ、模倣された。
元禄~正徳期(1688~1716)には、子供向けの小謡本が登場した。元禄3年(1690)、京都の山岡四郎兵衛の『頭書絵入/小謡百番』(半紙本)は、初めて頭書(頭注)に挿絵を用いた小謡本であり、以後の子供向けの小謡本のスタイルの主流となった。
享保4年(1719)には、往来物の頭書に小謡を載せた『商売往来/附小謡』(大坂・吉文字屋市兵衛・大野木市兵衛)が刊行され、後に、往来物、礼法書、重宝記、節用集の頭書に小謡が掲載された。江戸後期には、大坂の版元を中心に三都と地方との提携出版が行われ、定番となる小謡本や挿絵の多い大部の小謡本がつくられた。
2.地域的特色
小謡本は、京都では寛永5年(1628)、大坂では明暦2年(1656)、江戸では寛文5年(1665)の刊行が確認できた。地方では、元文4年(1739)に栃木での刊行があり、江戸後期には全国各地での刊行が確認できた。
京都では、二条通や寺町の書物屋が謡の上級者向けの部分謡本を刊行し、草紙屋が子供や初心者のための様々な小謡本を刊行した。大坂では、小謡本は寺子屋の教育と結び付いて大きく発展した。小謡本の頭書には、文字の書き方や算盤等、往来物的な記事が掲載され、後には、礼儀作法や茶道華道・囲碁将棋等の実用的な記事、男女の相性や占いまでもが掲載された。江戸では、頭書に能面図入りの小謡本が流行し、巻末に酒宴用の肴謡(一口謡)が付された。小謡は短くなり替え歌も交えられ、能面図入りの小謡本を模したパロディー本も刊行された。
質疑応答では、版元の小謡本の企画方法について質問があった。小謡本は版元の編集担当が版元の営業方針によって企画したと考えられると回答し、江戸後期には専門の編集者やデザインまで担当する絵師が存在したことを補足した。
また、発表後に貴重なご教示をいただいた。ひとつは、小謡本が隆盛した要因に目録や付録(頭書・口絵・前付等)の工夫があるが、それが大衆化に伴うビジュアル化と捉えられること。現代の日本のSNSの発達と同様のことが江戸時代に起こっていたのが非常に興味深いとも。もうひとつは、図1・図2を見ると享保期に出版数が明らかに減少しており、小謡本のようなものまでも出版規制の何等かの影響を受けていたのではないかということ。このような広い視野からの考察は、今後の大きな課題である。
(注)
・図1・図2は、法政大学鴻山文庫所蔵の謡本・部分謡本の集計結果である。部分謡本は、小謡本の他に曲舞、囃謡、語等があるが、初期の刊行のみで、ほとんどが小謡本となる。
・図2では、連名版の版元を各地域に分けてカウントしたため、グラフが図1より伸びている。