投稿誌『わいふ』の言説空間の構築について
豊田雅人
(専門学校アジア・アフリカ語学院インド語科講師)
概 略
本発表では主婦を中心とした1963年、兵庫県宝塚市で創刊された投稿誌『わいふ』における言説空間の構築について報告した。学歴・成育歴に関係なく主婦となった女性たちは、自己の存在意義を求めていた。なかんずく今日のようにSNS等が発達していない1960-70年代の女性たちの嘆きは特に大きかった。もちろんそれ以前にもサークル間における綴り方運動が挙げられようが、あくまでも1950年代の発表の場でしかなかった。『わいふ』は不特定多数の声を、場合によれば新聞の当初では取り上げられもしなかったであろう意見に至るまで掲載した点を最初に述べた。
報告内容
特に着目したいのは、宝塚時代の編集部が廃刊宣言をした1974年の告知を受けて編集権を移管してもらった『わいふ』が1975年に東京で再構築され、翌1976年に再刊行されるに至った東京『わいふ』のしなやかさである。そこでは夫婦問題・教育問題・公害問題・日々の雑感と、多岐にわたるテーマを扱った。まさに市井の人々の声を集めて、この雑誌は成り立っていたのである。その寄せられる主婦たちのために『わいふ』編集部は雑誌として何ら遜色のない体裁を整え、多くの女性たちに言説空間を提供したのである。
その第一号は通算138号「天皇とわたしたち」であった。これは1975年に訪米を終えた昭和天皇に対してイギリスのタイムス紙の記者が「自身の戦争責任について、どのように考えるか?」といった趣旨の質問をしたところ、昭和天皇が「そのような文学的な質問には答えかねる。」といった返答をしたことに対する『わいふ』編集長田中喜美子(1930-)の中に怒りにも似た感覚が生じ、まずは再発刊において天皇制について直截な意見を述べるべきであると考えたからである。
これは「人民の記憶」に重きを置いた鶴見俊輔(1922-2015)の『思想の科学』が同じく天皇制について特集を組んだところ、発行元の中央公論社(当時)が、思想の科学編集部に断りもなく右翼の襲撃を恐れて裁断処理したことで、袂を分かった事例とも相似性を持つ勇気ある行動であった。つまり『わいふ』が市井の記憶の記録係といった面を打ち出した瞬間でもあったわけである。
時には読者同士で論争のような出来事も生じた。そのこと自体がかえって雑誌としての『わいふ』を活気づかせた点は見逃すことができない。とにかく書きなぐりであっても良いからと、読者は自分の言語を駆使して『わいふ』にぶつけてきた。そして『わいふ』はそれに柔軟に応えたのである。
そして最大の収穫は、一介の主婦であった女性たちの中からプロフェッショナル・ライターを生み出した点である。これは当時の同業他誌には見られなかった点である。ある雑誌では主催者自らが芽を摘んでしまった事例もあったからである。
彼女たちは水を得た魚のように縦横無尽にペンを走らせた。そして『わいふ』を支える柱となった。もはや市井の言説空間を突破して、仕事を持つ女性として自立を促した点が大きかったことを報告した。
内容についても同じことで、右翼へ憧れを抱く少年たちの存在、その根底に何があるのかを東京『わいふ』編集長の田中喜美子が、じかに右翼団体へ聞き取りに行くなど誌面はタブーや恐れに対して物おじせずに突き進んでいったことを述べた。
おそらく新聞などでは、彼らが教育の場からスポイルされていった事情や少年たちの心情調査などは、眼中の外であったに違いないと考えられるからである。
そして忘れてはならないのは『わいふ』が戦争の記憶について定期的に特集を組んでいたという点である。年々薄れていく戦争の記憶を風化させないように『わいふ』は最初の10年間だけでも2回特集を組んでいる(通算151号1978年3月25日号「女の戦後30年 暮しの手帖にそって」と通算171号1981年9月1日号「ただの女の防衛論議」)。
それ以降も『わいふ』は戦争の記憶について特集を組んでいるが、本発表は再出発した東京『わいふ』がつづり方運動緒から脱却し、永続性のある運動体としてどのように変貌していったかについて最初の10年間にのみ報告したものであったので、定期的に戦争の記憶を取り上げたことだけを紹介するにとどめた。
また、働く女性の特集についても『わいふ』は敏感に反応した。男性の領域と考えられていた、幾つかの職業について原田静枝(彼女も『わいふ』が発掘したプロフェッショナル・ライターである)の6回にわたる連載「男の仕事を乗っ取ろう」で男女雇用機会均等法施行前夜の中でも、見事に単なる腰掛ではない職業人として活躍している女性たちを取り上げた。東京『わいふ』は読むに耐えられる雑誌としての力を蓄え続けていたということもできよう。
質疑応答について
質疑応答では先行研究の有無についての質問があった。そこで池松玲子氏のほか高橋裕子氏の名を挙げた。ただし池松氏は『わいふ』の全体像の量的分析に、高橋氏は宝塚時代の『わいふ』にのみ取り組んでいるという点を付け加えた。