雑誌『美術新報』による文部省美術展覧会報道の批評性とその意義
日比野未夢
(千葉大学人文公共学府博士後期課程)
0.序論
新聞は1877年の内国勧業博覧会を契機に美術を報じはじめた。また1900年ごろから「美術」を標榜する雑誌が相次いで創刊された。そして1907年に日本初の官設公募展覧会である文部省美術展覧会(文展)が開設されると、新聞や雑誌はこれを各々の観点と方法で取り上げた。
先行研究で今橋映子は、美術批評家の岩村透(1870-1917)の思想や言論活動を探究し、彼が協力した雑誌『美術新報』(画報社、1902年3月から1920年12月)は、文展が規定した美術概念の拡張を志した運動体だったと指摘した(注1)。しかし管見の限りでは、新聞や雑誌が発信した文展に対する記事を吟味し、美術の批評空間の全体像を捉えようとする研究は未だおこなわれていない。そこで筆者は、『美術新報』を同時期に刊行された新聞や他の雑誌と比較しながら分析し、文展に対する同誌の編集態度を明らかにすることを本発表の目的とした。
1.1910年代前半における美術、文芸雑誌の文展に対する態度
『美術新報』は文展審査や陳列作品だけでなく、会場や来場者についても記事にした(注2)。一方、雑誌『みづゑ』(春鳥会、1905年7月から1941年8月)は、文展に陳列された水彩画に対する批評のみを掲載した(注3)。また、雑誌『方寸』(方寸社、1907年5月から1911年7月)は、文展審査に対する批評や陳列作品に対する合評、作品図版を掲載した(注4)。雑誌『早稲田文学』(早稲田文学社、1906年1月から1927年12月)も合評を掲載した(注5)。
第一章では、多くの雑誌が文展の審査と陳列作品のみを取り上げたのに対して、『美術新報』は文展に関する多様な情報の提供に努めた点で他の雑誌とは一線を画していたと指摘した。
2.二科会及び再興日本美術院の展覧会開設と『美術新報』の変化
『美術新報』に1年間で最も文展に関する記事が掲載された各11月号を、当該記事が占めた割合は1909年から1913年まで約6割以上だったが、1914年以降は3割以下となっていたことがわかった。1914年以降、文展以外の展覧会、主に二科展と再興日本美術院展に対する言及が増加していた。
第二章では、1914年の二科展と再興日本美術院展の開設を契機に、同誌を占めた文展の位置づけと分量の比重が相対的に低下したと指摘した。
3.『美術新報』が掲載した作品図版
『美術新報』の口絵と中絵の分析を試みた。1頁大の作品写真図版のうち、目次のすぐ後に配置された図版を口絵、雑誌の中ごろに配置された図版を中絵という。同誌が文展に関する記事を多数掲載した1909年から1913年までの各11月号に掲載された口絵、中絵は、全て文展陳列作品であった。また、その約半数は審査員出品作品もしくは文展から等級を受けた作品だった。
しかし、同誌は機械的に文展から等級を受けた作品を掲載していたわけではなかった。たとえば、1910年第四回文展に尾竹竹坡(1878-1936)が出品した《おとづれ》(1910年、屏風六曲・一双、各155.0×358.6cm、東京国立近代美術館)と《棟木》(作品情報調査中)のうち《おとづれ》が文展で二等を受けたが、同誌は《棟木》を中絵に掲載した。
この点もふまえ、同誌が読者の目を文展審査員の作品や等級を受けた作品以外へ向けさせようとした可能性を指摘した。
また、同誌は文展の出品規定に該当しない工芸作品の図版も掲載していた。たとえば、1915年11月号には農商務省図案及応用作品展覧会に対する批評とあわせて、工芸作品の写真図版9枚を掲載した。
第三章では、『美術新報』は文展陳列作品の図版を多く掲載したものの、ただ文展が規定した美術概念に追従していたわけではなかったことを指摘した。
4.結論
本発表の検討をとおして、『美術新報』は文展に誌面を割いた一方で、美術鑑賞および批評の普及を目的に、文展以外の場で進行する表現、たとえば私設美術団体の展覧会や工芸などを読者に紹介したと結論づけた。
今後は、1914年に結成された美術雑誌記者団体を手がかりに『美術新報』と他媒体の連携を検討することを喫緊の課題とする。
注
1 今橋映子「第十章『美術新報』改革とその戦略(1909-1913)」(『近代日本の美術思想――美術批評家・岩村透とその時代』、白水社、2021年)、436-499頁
2 坂井犀水「初日参観記」(『美術新報』第9巻1号、1910年11月)、2頁。ちなみに、新聞は会場や来場者も記事にしていた。一記者「展覧会を観る人」(『読売新聞』12005号、1910年10月18日)、朝刊3面。
3 大下藤次郎「文部省展覧会の水彩画を観て」(『みづゑ』第56号、1909年11月)、13-14頁
4 石井柏亭他「第二回公設展覧会洋画合評」(『方寸』第2巻8号、1908年11月)、5-10頁
5 高村光太郎他「文部省美術展覧会合評」(『早稲田文学』第48号、1909年11月)、17-35頁