豊田雅人
(立教大学21世紀社会デザイン研究科後期博士課程)
本発表は,1970年代における『わいふ』(1963-1975年:宝塚わいふ編集部,1976年-現在:東京わいふ編集部)と『女・エロス』(1973-1982:「女・エロス」編集委員会:社会評論社)両雑誌の家族観の違いを通して,時代を乗り切った雑誌と,そうではなかった雑誌の違いについて考察を加えるものである。『わいふ』は1963年に兵庫県宝塚市で創刊されたサークル誌が源流であり,その後1975年に東京都新宿区に編集権が移ったサークル誌であった。
雑誌の内容が先鋭化しすぎていった『女・エロス』が読者離れを起こしたのに対して,『わいふ』は家族や家庭の問題を深化させていったのみならず,時には男性の意見を交えながらの誌面づくりをしたことが大きい。男性排除の方針をとった『女・エロス』は家庭解体を声高に叫ぶようになっていったが当時の時代様相が,そこまでついていけなかったことでもある。
『女・エロス』の場合は特に第6号からは家族解体を中心に特集を組み,家族がいかに個人を窒息させるかを強く意識した内容になっていき,1970年代当時の日本の社会システムにおいては,決して相容れられないものとなってしまったことを発表の中で報告した。
『女・エロス』において最も大きい問題点は,そこまで家庭解体を宣言したことで主婦層の離反を招いたことが考えられる。そして最大の違いは『わいふ』が誌面通り主婦の投稿を基にした構成であったのに対して『女・エロス』では未婚女性(あるいは離婚女性)の意見が多く寄せられていたことも挙げられる。研究手法としては両雑誌の同時期の記事を基に,家族についてどのような視座を持っていたのかについて考察を加えた。
以上の比較から得られる知見は,女性の権利を主張する力が強かったことで,逆に『女・エロス』は内容がマルクス主義に傾倒し著しく男性化(あるいは中性化)してしまったというパラドックスである。そして文字通りハウスキーパーとしての「主婦業」がいかに女性「性」を卑下し,圧迫されているのかを特集の中で論じている。執筆者は,その文章の書きぶりから教育水準が比較的高い女性が多く,夫の家庭に対する非協力的状況の告発が列挙する「自立した女性」は,1970年代に当時における婚姻・家庭を否定するべきで,主張にはし,そこには性別役割分業の否定も含まれていた。これは結果として,「女を捨てない立ち位置で女の優位性を打ち出した」と述べてもよい。
それが文章の隅々にわたってマルクス用語の頻出となって,それが読者の離反を招くこととなり,最終号では販路の縮小と資金不足を嘆く内容となって幕を閉じてしまうこととなった。文字通り「イスクラ(ロシア語で「火花」の意味)」となってしまったと考えてもよいだろう。対して『わいふ』は繰り返し提起される男性(夫)との問題意識を,常に繰り返し取り上げ続け,様々な角度をもって切り込んでいった点にある。それが半世紀以上にわたって刊行され続けられている理由であると位置づけた。『わいふ』にあって『女・エロス』になかったもの,それは投稿者が固定化してしまい,読者の闊達な意見交換ができなくなってしまったのではないかという考察を明らかにした。『わいふ』は読者の交歓の場という機能の面から,主婦のアイデンティファイとしての言説空間がどの様に提供されていったかについて述べた。
そして一冊の雑誌が雑誌としての生命を終えるときはどのような作用が生じるかについても併せて発表した。もちろん長く続いている事自体だけが良いこととは限らない。短期間であっても主張が貫徹したものであり,その結果として社会に主張が受けいれられなかったとしても,出版物としてみた場合は,いかに自己を表現していったかが重要であるからである。結果として『女・エロス』は,その主張が先鋭化したあまり時代性の中で淘汰されてしまった雑誌であり,片や『わいふ』は時代性を敏感に受け止めて主婦のあり方について特集を組んでいったことが,今日まで刊行されている一つの要因であると述べた。
つまり『女・エロス』は啓蒙誌,『わいふ』は純粋な投稿誌としての路線を採用していったのだとも考えることができるということである。
質疑応答では『女・エロス』について,その存在を承知している聴衆者からの同誌についての補足説明を受けたが,『わいふ』について存在を知っている人は皆無であった。
今回の発表では「主婦・妻」の立ち位置について,それを前提として立ち位置を模索し続けた『わいふ』と強い否定を示した『女・エロス』との対比を通じて,読者の獲得がいかになされていったかについて述べ,片方は「雑誌として死んでしまった」過程を報告した。