張 賽帥
(東京経済大学大学院博士課程)
はじめに
19世紀末は,日本が近代国家として地歩を固めていた時期であり,日本の対中認識の激変する時代でもあった。本発表では,1898年に発足した東亜同文会が発行した雑誌『東亜時論』に関して,雑誌の特色,定価と販売部数,誌面の構成を整理した。その上で,中国時局に関する論説を取り上げ,「中央政府」と「地方有力者」といった視点を設定して検討し,誌面から見られる複雑な中国時局観のあり方を明らかにした。
『東亜時論』について
『東亜時論』は1898年12月から,翌年12月にかけて東亜同文会の機関誌として発行された。平均60頁程度の本誌は,毎月10日と25日に定期的に刊行され,1号当たりの平均販売部数は3,417部と算出できる。定価は1部当たり8銭であるが,第五号の社告により値上げし1部当たり12銭となり,同時期に販売されていた他の雑誌と比較しても標準的な価格が設定されている。
全26号の『東亜時論』の中に出現したカテゴリーは総計17種がある。ここでは,「時論」・「諸家論説」・「論説」のカテゴリーを「論説類」としてまとめ,論説のほかのカテゴリーは「雑報類」としてまとめた。特色は「東亜問題の紹介と批評」にあり,後に政治色が後退し,華やかな政論から比較的地味な調査報告や中国に関する報道へと移っていった。
抽出方法と対象
『東亜時論』には,合計67本の論説が掲載されている。そして,本文の中に,中国の「時局」,「政府」,「皇帝」,「有力者」などのキーワードが出現している文章に注目し,政府と地方の現状や動向に関する討議を取り上げている論説を分析対象とする。以上を踏まえて,中国時局に関する内容を扱った論説25本を抽出して考察の対象とした。
「中央政府」に対する認識
『東亜時論』においては「中央政府」へ政権維持の意義と現状の批判という相異なる言論活動を行なっている。この「二重的認識」の形成過程と変貌を検討していくと,日清戦争後,東亜同文会は「中央政府」を代表とする清帝は「継位者」であると肯定し,維持の意義があることを主張している。また,「中央政府」の統治権を認め,思想の革新や遷都策などを通じて政府改善・提携することを目的とする論調が存在する。
一方,「中央政府」を批判し,「中心既に腐り」,「根底已に動き」,「其形を保つに過ぎさる」などのような否定的な評価が散見できる。改革の対応に対する批判が噴出し,極端な言葉が多く見られ,悲観的な見通しも誌面で見られる。
「地方有力者」への対処
「地方有力者」に対する認識は二つの特徴が認められる。第一に,張之洞と劉坤一を代表とする「地方有力者」に対する肯定論を鼓吹するという点である。張と劉の功績に対し,中国国内だけではなく,海外でも注目され,彼らの個人信望や改革支持について肯定的な認識が述べられている。
第二に,「地方有力者」との提携論を唱え,単に同会の中国進出のみを計ろうとしたのではなく,外務省の対中方針へ同調する論調も見られる。日中の将来において,張・劉の主な管内地域に日本商民を居留させることを奨励し,現地事業を計画している。それは,同時期外務省が南部地域政権を承認しつつ,殖産興業や貿易振興などに関わる経済外交を重視するという,同じ認識を示している。
しかし,誌面上では,「地方有力者」への肯定的評価がほとんどであるが,張之洞に対する懐疑論を持っている人物も存在している。そして,近衛篤麿と宗方小太郎は実際に張之洞と面会した後にも,彼に対する失望的な見方も持つようになり,それは外務省の対張認識と一致していることがわかる。
おわりに
雑誌『東亜時論』は同時代の雑誌と比較しても標準的な価格に設定され,有力論説誌に匹敵する平均発行部数を獲得していた。本誌の中国時局観においては,当時の中国の政治情勢を背景に「中央政府」と「地方有力者」を分けた議論が立てられている。「中央政府」については,政権維持の意義を述べつつ,現状を批判するという異なる方向性を含んだ論調が見られる。一方,「地方有力者」については肯定論と提携論を中心とする論調がほとんどであり,革新事業に対し,張之洞と劉坤一への肯定的な評価を示したことが認められた。検討を通して東亜同文会の中国時局観には国家の意志が反映されていることも明らかになった。