本間理絵
(NHK出版)
日本における出版と放送のメディアミックスは,どのように始まり展開したのか。本研究は,戦前のラジオドラマにおける老舗文芸出版社の春陽堂書店と黎明期のラジオドラマ制作を牽引した「ラヂオドラマ研究会」の連携に注目し,戦前の出版社がメディアミックスの発展に果たした役割を,調査研究により明らかにすることを目的とする。
先行研究は,ラジオドラマ黎明期に関するものに西澤(2000)竹山(2002),戦前のラジオドラマを言語学的見地から論じた遠藤他(2004)があるが,春陽堂書店とラヂオドラマ研究会の連携に注目して戦前のメディアミックスを論じたものはない。なおここでいうメディアミックスの定義は,「さまざまな広告媒体を組み合わせることで,お互いの弱点を補う広告手法のこと。例えば,小説やマンガを映画化したり,TVドラマ化したりすることで,両者の売上を伸ばす方法」(アスキーデジタル用語辞典)とする。
戦前の出版と放送のメディアミックスは,大正14年(1925)に放送開始されたラジオドラマにおける「小説のラジオドラマ化」がその嚆矢である。徳冨蘆花原作の『不如帰』(大正14年6月14日放送),尾崎紅葉原作の『金色夜叉』(同年8月14日放送)などが国民の人気を博した。これらのドラマ制作を担っていたのは,初代放送部長の服部愿夫が作家や劇作家を集めて放送局内に結成した「ラヂオドラマ研究会」であった。
本研究では戦前の「小説のラジオドラマ化」がどのように行われたかを調査するために,以下の三つの調査研究を行った。第一は「原作供給元調査」で,仮放送開始の大正14年6月から日中戦争後の日本放送協会の番組改編を経た昭和13年末までの間に,最も多くラジオドラマの原作を供給した出版社,最も多くドラマ化された作家を,「放送劇一覧表」(昭和31年にNHK編成部調査課が調査)によって調査した。調査の結果,ラジオドラマの総放送回数739回のうち「小説のドラマ化作品」は計72回あり(残りは「戯曲のドラマ化」と創作ドラマ),最も原作を供給した出版社は,1位・春陽堂書店(18回・14作品)で,2位は大日本雄弁会講談社(9回・8作品),3位は博文館(5回・5作品)であった。
最多の春陽堂書店は,明治11年に和田篤太郎が創業,明治22年創刊の文芸雑誌『新小説』に尾崎紅葉,森外,島崎藤村,永井荷風ら文豪を取り込んで成長し,明治・大正期の文芸出版をリードした老舗出版社である。
第二の調査研究では,春陽堂書店と,黎明期のラジオドラマを制作したラヂオドラマ研究会,同研究会の委員で,昭和6年から13年まで日本放送協会の文芸課長を務めた作家の久保田万太郎(1889-1963)の三者が,どのように連携して「小説のラジオドラマ化」を行っていたのかを文献調査により考察した。
ラヂオドラマ研究会のリーダー格だった小山内薫と長田幹彦が相次いで病死,退職した後を引き継いだ久保田は,春陽堂書店の『新小説』からプロ作家デビューした関係で,同社と深いつながりがあった。一方,春陽堂書店の四代目社長であった和田利彦は,円本全集(『明治大正文学全集』)を大ヒットさせ,「春陽堂文庫」を立ち上げるなど意欲のあるやり手の経営者で,新しいメディアであるラジオとの連携をビジネスチャンスとみていた。同社が『ラヂオドラマ叢書』シリーズ(全五巻)を刊行できたのも久保田とのつきあいがあったからである。このようにプロデューサーとして原作採択の権限があった久保田と春陽堂書店との深い結びつきが,同社が最多の原作供給元になり得たことに関係していると考えられる。
第三の調査研究では,久保田文芸課長のもとで「ラヂオ小説」(明治期の文豪小説のドラマ化)という新しいラジオドラマ形式を開拓した台本作家・小林勝(1903-1982)の50本の台本を分析し,「ラヂオ小説」がどのような内容で,国や放送局によってどのような役割を担わされていたのかを考察した。その結果,小林が戦前に書いた計50本のドラマ台本のうち16本が夏目漱石作品であった。小林作品は,(1)「ラヂオ小説」と呼ばれる夏目漱石や森外,島崎藤村ら明治期の文豪の原作もの,(2)山岡荘八,藤沢桓夫等の昭和初期の従軍作家の原作もの,(3)オリジナルドラマの3タイプに分類できるが,このうち(2)と(3)が「時局連動」の役割を担っていた。(1)の「ラヂオ小説」も,徐々に時局連動の作品に様変わりしていた。
昭和13年,久保田が日本放送協会を退職した。その前年に日中戦争が勃発して以降,国や放送局は国民に人気のあるラジオドラマを時局に連動しようとした。小説を原作としたラジオドラマは増加したが,かつての文芸路線は鳴りを潜め,代わって従軍作家による戦争小説のドラマ化作品が多くなる。この頃には,春陽堂書店も文芸出版の雄の座を新潮社や中央公論社,文藝春秋などの新興出版社に奪われつつあった。