「活字離れ」論の文化史 林 智彦 (2015年5月 春季研究発表会)

「活字離れ」論の文化史――「定義」と「統計」の実証研究

林 智彦
(朝日新聞社)

 「出版」についての報道や論評に,「枕詞」のように多用される「活字離れ」という概念は,どんな意味で,どのように使われてきたか。その本当の意義は何なのか。「定義」と「統計」の両面から追究するのが本研究の目的である。
 春季研究発表会では,(1)活字離れという現象が,本当に起きているのかどうか,(2)活字離れという用語の来歴,(3)活字離れという用語の用いられる社会的文脈,という三部構成で検討を行った。
 (1)について。2015年の年初から前半にかけて,日本社会の「活字離れ」に警鐘を鳴らす言説が,文芸誌などで流行したが,読書率,売上(インフレ調整済み,国民ひとりあたり)などのデータを見ると,書籍に関して「離れて」いるという決定的な証拠は見られないことを示した。
 (2)については,新聞・雑誌記事等を援用しながら,1950年代に使われだしたことを示し,その動きが,マクルーハン「メディア論」で例示されたような,旧メディアによる新メディアに対する「外敵撃退」を目指した反応の一種として理解できることを示した。
 (3)については,過去の「活字離れ」論議が,新聞界と出版界を引き寄せ,権益保護の連合戦線を組む際のスローガンとして機能してきたことを示唆した。報道を見ても,ビジュアルな本の隆盛や,活版印刷からCTSへの置き換えなどが,すべて「活字離れ」で一括りにされ,中には,対策と称して,女優のヌード写真集を購入した学校図書館の例もあった。「活字離れ」という箱には何でも入るのである。
 これらをまとめて,一つのまともな「概念」を定式化することは普通に考えて無理である。それは「概念」というよりは,業界関係者にとって都合のよい政治的キャッチフレーズにすぎないのではないか? と発表者は問題提起した。
 発表終了後,会場から,以下のような質問を受けた。
(1)「活字文化(出版文化)」との関連について,どう考えるか?
(2)「出版研究45」掲載の論文(清水一彦「『若者の読書離れ』という“常識”の構成と受容」)が提示した論点と本研究との関連は?
(3)活字離れという概念の当否とは別に,実態として,人々がどんどん本から遠ざかっているという実感があるが,どう考えるか?
 これに対して,発表者は次のように返答した(以下,当日の回答を補足した)。
 (1)については,「出版物というフォーマットのなかで物事を思考し,共有する方式」(『現代社会学事典』「活字文化」の項)とされ,「活字離れ論」と密接に関連していることは間違いない。
 ただ発表者としては,歴史的実体としての「活字文化」と,機会主義的に持ちだされる,いわば表象としての「活字離れ」概念の間には,一線を引きたいと考えている。後者はしばしば,活字「産業」の意図によって生み出されている。
 (2)については,社会心理学的な見地から「若者の読書離れ」を論じ,出版に関わる諸アクターによって,「ここちよい」物語として同概念が製造,再生産,消費される様を追った興味深い研究であると考える。
 同研究と本研究は,出発点において共通点が多いが,次の2点が異なる。
 一つは,近年の「活字離れ」論は,メディア環境の激変とあいまって,旧来の「若者批判」の枠内に収まらなくなってきている。その結果,世代論は後退し,より権力性があらわになっているともいえる。この点に,発表者はより重心を置いている点である。
 もう一点は,清水氏の論文が「ここちよさ」という心理面に着目しているのに対し,発表者は,関係者にとって「都合がよい」という政治的な側面に注目している点が挙げられる。
 (3)について。発表者は,文化批評によく見られる「昔はよかった」式の主張は,実証的な学問の対象足り得ないと考えている。
 過去と現在の文化現象の優劣を論じるためには,文化に,何らかの基準を設けなければならない。活字離れについていえば,いつの,いかなる状態が「よい」状態で,それと比べて現状は何がどう「悪い」のか,定義する必要がある。
 しかし,おそらくそれは不可能だろう。たとえば,ウェブやスマートデバイスの普及によって,人類はかつてない量の文字を日々読んでいると考えられる。これの何が悪いのか。簡単には言えまい。
 この構図は,いわゆる「学力低下論争」や「しつけ論争」にも共通するもので,歴史研究に安易に(現代的)価値観を持ち込むことの危険性を示す実例ともいえるだろう。
 発表者は今回の発表で提起した問いを深め,「活字離れ」論がほんとうに守るべきだったものは何なのか,そして,それは現在のメディア環境の中でどう再定義されるべきなのか,という方向へ研究を進めていきたいと考えている。
 なお,当日発表で使用したスライドは,以下のアドレスで公開する(http://goo.gl/Gb0uDS)。