掛野剛史
(埼玉学園大学准教授)
1.はじめに
明治期に象徴派詩人として名を馳せた薄田泣菫は,大正期には新聞人として活躍を見せた。1912(大正元)年8月に大阪毎日新聞社に再入社した彼は,主に学芸部において,当時の新聞において重要なコンテンツであった文学を積極的に取り入れ,芥川龍之介などの新進作家に紙面を提供して魅力的な紙面作りを図った。また自身もコラム「茶話」を断続的に発表して,読者に愛されるなど,優秀な新聞編集者として活躍をみせた人物である。彼が活躍したこの大正中期から昭和にかけては,1924(大正13)年に大毎がはじめて100万部を突破するなど,日本の新聞界にとって爆発的に読者数を増やしていく時期にあたる。一方でこの時期,大毎をはじめとする新聞社は,新聞以外の出版物を積極的に刊行し始めている。
こうした重要な時期に大毎で活躍した薄田泣菫の旧蔵資料は,現在倉敷市に薄田泣菫文庫として残る。本発表ではこの文庫の泣菫宛書簡から,大毎関係者のものを抽出して紹介し,大毎内部の交友関係を浮かび上がらせるとともに,特に新聞以外に新聞社が刊行した刊行物の出版展開を考察した。
2.薄田泣菫文庫に残る大阪毎日新聞社関係者の泣菫宛書簡
泣菫宛書簡のうち,大毎関係者(東京日日新聞も含む)の書簡は現在のところ37通を確認している。以下がその内訳である。
(1)本山彦一 (1853-1932) 3通
(2)高木利太 (1871-1933) 2通
(3)奥村信太郎(1875-1951) 3通
(4)高石真五郎(1878-1967) 5通
(5)城戸元亮 (1881-1966) 1通
(6)平川清風 (1891-1940) 4通
(7)高田元三郎(1894-1979) 4通
(8)石川欣一 (1895-1959) 8通
この他,相島勘次郎(1868-1935),春秋原在文(1874?-1930),阿部真之助(1884-1964),西野入愛一(1895-1957)が各1通,前田三男(?-?)が3通ある。
これらの泣菫宛書簡からは,本山彦一をはじめとする大毎の礎を成す人物たちと世代や派閥を問わない幅広い交流がなされていることがうかがえる。
3.本山彦一をめぐって
本山彦一の泣菫宛書簡は3通残るが,いずれも新聞人薄田泣菫への深い信頼と敬意が浮かび上がるものである。こうした二人の間で特に注目すべきは,大毎が「婦人の新百科全書」として刊行した書籍『婦人宝鑑』に関する書簡である。この書物に対して,本山は1923年3月18日書簡において,「現代代表的婦人指定に付而ハ小生感服せさるもの多々之有候」と不満を述べたほか,「次年度に於て問題にすべき」ものとして「文芸ニ関する資料少き事 殊に韻学に係るものなし」ということを挙げるなど率直で具体的な意見を泣菫に述べている。翌年刊行の『婦人宝鑑』からは,「現代の代表的婦人」の項目は消え,また「韻学に係るもの」については,新たに「和歌の作り方」と「俳句の作り方」の項目が追加されていることからみても,書簡で示された本山彦一の影響が強く刊行物に反映していることがわかる。
4.大毎における出版事業について
『婦人宝鑑』が創刊された1923年前後の時期は,1919年『毎日年鑑』刊行,1922年4月『サンデー毎日』創刊,1923年4月『エコノミスト』創刊など,大毎が積極的な出版展開を見せていた時期にあたる。そしてこの展開は朝日新聞との対立関係によって加速したものでもある。そこで大毎の出版展開を把握するため1928年までの出版目録を仮に作成し,年ごとの大毎の出版点数と朝日新聞の出版点数(『朝日新聞出版局史』(1969)より)を共に示した。
1918年まで 大毎8点 朝日36点
→1919年 大毎0点 朝日2点
→1920年 大毎4点 朝日2点
→1921年 大毎17点 朝日12点
→1922年 大毎17点 朝日15点
→1923年 大毎45点 朝日18点
→1924年 大毎46点 朝日34点
→1925年 大毎30点 朝日43点
→1926年 大毎67点 朝日51点
→1927年 大毎52点 朝日55点
→1928年 大毎71点 朝日73点
1928年までの合計 大毎357点 朝日341点
出版点数では大毎と朝日がほとんど同じような展開を見せ,社内組織も,朝日では1922年2月に出版部が設置され,大毎では専任部長が置かれていなかった出版部が1923年11月に営業局の一部として独立し,専任部長が置かれるなどの変化を見せる。
『毎日新聞百年史』(1972)ではこの組織編成について本山彦一の言葉を引き,全社をあげての協力態勢の呼びかけだとしている。これらのことは先の1923年3月18日書簡にある本山の言葉でも裏付けられ,この時期の本山及び大毎が出版に対しても意欲的であったことが明らかになる。ただ,大毎のその後はこうした思惑通りとはいかず,1928年に刊行された『スポーツ年鑑』は2年のみの刊行,『内外経済年鑑』は1年のみの刊行で終り,組織においても,1929年3月31日に出版課は廃止され,同年6月には学芸部が学芸課になり,大毎の編纂課が廃止されている。こうした出版事業の縮小については円本ブーム以降の出版不況なども関連しているものと思われる。
新聞社の出版活動は,本業の新聞発行との関係において微妙な位置にある存在であり,その展開を一筋のあゆみとして把捉することは難しいが,各新聞社の出版目録の整備などを通して,それを近代出版史の中の一つの要素として位置づけることは必要な仕事だと思われる。