戦時下ドイツの出版社 佐藤隆司 (2014年5月 春季研究発表会)

戦時下ドイツの出版社――ショッケン出版社の場合

佐藤隆司

 私はドイツの出版人・図書館人の生きざまといったテーマでこれまで10数人の人を見てきた。今回はその延長で,ザルマン・ショッケンを見ることにしたい。視点を次の7点にしぼることにする。(1)生い立ち,(2)デパート経営者,(3)ショッケン出版社経営者,(4)哲学者,文学者のパトロン,(5)貴重書のコレクター,(6)ヘブライ大学改革者,(7)ナチスとの関係,そして最後に私がこれまで取り上げてきた人達と彼をみながら私なりの結論,という順で話を進めたい。

(1)生い立ち
 ザルマン・ショッケン(Salman Schocken, 1877-1959)はポーランド領内のマルゴニン(Margonin)という小さな村に生まれたユダヤ系ドイツ人である。彼の祖父アブラハムが1830年ショッケン村に居を構えたというのが記録に残る最初である。彼は他のドイツ系移住民とは違って次の2点で独自であった。イ,彼らのほとんどが西方を向いているのに対し,彼は例えば1848年の騒動をきらって,ショッケン村からさらに東のマルゴニンに向かった。ロ,プロイセン当局がドイツ系ユダヤ人にドイツ系の名前に改姓しろという布告を出し,多くの人が星,石,花などから名前を取ったのに対し,アブラハムはショッケンという無名の土地の名をとったのであった。このような独自性はザルマンに引き継がれているようである。父親は商人であった。ザルマンは土地のドイツ系国民学校に通って,シラーの詩,フォンタナの物語,ルター,フリードリッヒ大王,ビスマルクの名を知った。本好きの彼は幼少時から多くの本を読み,とりわけゲーテに傾倒する。一方ユダヤ人の通例通り,ヘダーというヘブライ学校で聖書の朗読,ユダヤ人の食事作法など伝統を身につけて行った。こうして,彼の中にゲルマン精神とヘブライ精神の2本が柱として立つにいたった。ギムナジウムから大学の道を望んだが,経済的理由でかなわず,商人の道に入った。

(2)デパート経営者
 ベルリン,ライプチッヒで織物会社に勤めていたが,1901年兄シモンがツヴィカウに作ったデパートに入り,彼の本格的人生が始まる。彼は徒弟時代から夜通し本を読んだりしていたのだが,テーラーの経営学もその中に入っていて,近代的経営学をデパート経営に生かすことが出来,兄シモンより経営の才を発揮した。名建築家エーリッヒ・メンデルスゾーンと組んで例えばシュツットガルトにドイツ建築史に名を残すようなデパートを作ったり,彼らもその思想の継承者であるバウハウス思想による家具などを開発し,売り上げをのばしていって,1923-1930年頃にはヨーロッパでも屈指のデパート群を作り上げた。

(3)ショッケン出版社経営者
 デパート経営で大成功を修めた後,1931年彼の人生の第二ステージに入り,出版社を興すことになる。彼の本好き,文化への貢献意思が反映されている。

(4)哲学者,文学者のパトロン
 マルティン・ブーバーとは早くから知り合い,出版社の顧問格として迎え入れているが,若き日のアグノンを支え,ノーベル文学賞受賞のためのロビー活動までも行っている。また若き日の女流思想家ハンナ・アーレントの生活の面倒を見,彼女が思想家として大成するのを助けている。

(5)貴重書のコレクター
 財をなしてからは惜しみなく資金を投入して,ゲーテの草稿,初版本のほかドイツ文学者の草稿,貴重書,ヘブライ詩人の原稿,ヘブライのインキュナビュラなどを集めて,ナチス政権を避けてヘブライの地に作ったメンデルスゾーン設計の壮大な邸宅の敷地内に建てられた図書館にそれら貴重書を保管した。

(6)ヘブライ大学改革者
 彼は学歴がないことを終生心の痛手として抱いていたようである。親しかったブーバーとも晩年には仲たがいするにいたったのもそのあたりに一因があったのかもしれない。しかし,その彼はヘブライ大学改革のため,財力をかけて尽力し,ドイツ流研究大学へと変身させる。彼が作り上げたコンツェルンは3000人を擁する大軍団であったのだが,それに比べるとヘブライ大学は小さな集団に過ぎない。と述懐しているといわれるが,大学自治思想から見れば行きすぎた感想であったかもしれない。

(7)ナチスとの関係
 ユダヤ人ザルマン・ショッケンは生涯がナチスとのぶつかり合いであったといえようが,ここでは2つだけエピソードを記しておこう。イ,ナチス当局は『失業者救済のためのヒトラー財団』というものを作り1万マルクを用意した。ショッケンは15万マルクに相当する物資を寄付している。これをどうみたらよいか。実際家ショッケンはナチスとの関係を良くしておきたいと思ったのか,あるいは人道主義の立場からそうしたのか,その両者なのか。ロ,ナチスの暴虐がますますひどくなると,彼はパレスチナの地に身を引くが,ショッケン出版社の20万冊の本を何としてでもひきとりたかった。困難を極めた交渉の末,それを果たしたのであった。彼の財力がものをいったのかもしれない。ナチス内に,シャハトという経済のわかる人がいたのも大きかったのであろう。ともあれ,あの時代に信じられないような交渉があったということは忘れてはならないであろう。

(8)結論
 私なりの結論をだしてみる。イ,わが国においてすらユダヤ人とはこうだときめつける人がいる。私が見た限り,ザルマン・ショッケンはドイツ内,パレスチナ内の古い体質のユダヤ人とはそりが合わなく,一方アラブ人との関係を良く保つように努めた人であった。ユダヤ人にもいろいろな人がいることは日本人にもいろいろな人がいることと同様というべきであろう。ワンパターンで見て決めつけることは避けるべきである。ロ,私がこれまで見てきた10数人のドイツ出版人・図書館人はそれぞれ個性的に生きてきたように見えるが,あえて共通点を見ようとすると,古典に根差した豊かな教養があり,伝統を守ろうとするが頑迷な保守ではなく,リベラルなヒューマニストという姿である。あの厳しい時代に,そして,多大な犠牲者のことを思わずにいられないが,こういう人たちが生きていたということを銘記しておきたい。