信木晴雄
はじめに
『経験と判断』は1938年に著者のエドムント・フッサール(1859~1938)が死去したのち,当時私設助手を務めたルートヴィッヒ・ラントグレーベの編集によって1939年プラハのアカデミア書店から出版された。しかし同書店はチェコ併合の動乱によって解散に追い込まれ,刷り上がった初版本は廃棄されてしまう。ただ,ロンドンのアレン・アンド・アンウィン書店に送られた200部だけが市場にでまわった。ドイツ本国では第二次世界大戦後1948年に初版が写真複製のかたちで再販された。現在では初版の体裁・頁付けが保たれ,フェリックス・マイナー社より哲学文庫280(第7版1999年)に収められている。
1.『経験と判断』の成立事情
1919年から1920年にかけて冬学期に行われた「発生的論理学」講義を基にして,1910年~1914年の手稿,20年代の他の講義からも材料を得て,ラントグレーベが編集した。編者の序文には,内容的には『形式論理学と超越論的論理学』(1929)(以後『論理学』と略す)の続編でありながら,1935年に行われたウィーンとプラハでの講演に基づく『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936・1954)(1・2部のみがベオグラードの雑誌フィロソフィア第1巻に掲載されたのち,全集版には1・2・3部がワルター・ビーメル1918~の編集をへて収録)(以後『危機書』と略す)に代表されるフッサール後期の「思想圏」に属しているとされる。
ディーター・ローマー(1955~)はフッサールスタディー第13巻(31~71頁)という雑誌に掲載された「エドムント・フッサールの『経験と判断』の成立事情と出典材料について」(1996)という論文によって,『経験と判断』の依拠した大部分の草稿群(後述対照表参照)を確定している。
2.解説と比較(『経験と判断』の21節)
最初のa節のまえに導入部分の挿入があるが原著93~94頁にかけて,草稿にはない「但し書き」が期待志向について付け加えられている。これはラントグレーベによるこの節と第I章全体への補助的な解説とみられる。b節の始まり部分でも疑いが否定的な止揚への移行様態として露呈することが,まず明らかにされている。そのすぐ先では,前述語的な領域での確信と否定の様態の関係について,次のc節へのつなぎの解説をほぼ1頁弱,ラントグレーベは行っている。第21節の末尾では理論的な関心として後から詳述される箇所に向けて,ここまでの総括を1頁強,行っている。大きな違いと言えば,『経験と判断』では第21節の終結部d節の冒頭前半が『現象学的心理学』の第2章の終結部第9節を用いており,この箇所は次の第3章への導入となる役割があるのだが,根源的な確信が疑いの様態化への移行にさいして大きな働きをなすことが述べられている。次の第3章では存在確信として実際に存在していることの確証を示すはずの本来の規定性が,未規定的な可能性の枠内から出自をもつことへと話が続けられる。『経験と判断』ではこのあとに続くはずの未規定性の枠の箇所はd節に先立つc節で開かれた可能性として先に解説してしまっている。その方が読者にとっては,より分かりやすいかもしれないが,講義の思索過程としては探究的ではなくなってしまうだろう。入れ替えの意図はより重要なキー概念を手早く読者にわからせることと,フッサールの講義調の回りくどい冗長気味な描写をなるべく自然な解説調になじむテキストへと再構成しようとしている。
3.『論理学』との比較
『論理学』のもつ両義性,主観性と客観性の歴史的概観を第I篇で行い,これは1900~1901年にフッサールが著した『論理学研究』におけるカテゴリーの問題を継続している。判断論はこの第I篇第I章の最終部分に登場する。判断を通じて構成される命題という理念的対象をさらに広い多様体概念と理論形式(普遍学)によって存在論として捉え,第I篇を終える。第II篇では超越論的論理学が詳説される。ここは心理学との関係が主に述べられる。論理的な形成の主観性と理念的対象の対比が終始記述される。さらに重要な点は,心理的な形成として判断の明証性,論理的な対象である命題や事態のもつ真理の意味が問われることになってくる。そこで,明証性の批判である理性批判が経験の吟味へと進むことになる。これが超越論的な問題としての論理学の主観的な基礎付けと呼ばれる。心理学と超越論的現象学の問題が提起され,理性の現象学における志向性の働きによって明証性が解明されてからこの著作は完結する。
文献
Dieter Lohmar, Zu der Entstehung und den Ausgangsmaterialien von Edmund Husserls Werk Erfahrung und Urteil, in:Husserl Studies13, S.31-71, 1996.
Edmund Husserl, Erfahrung und Urteil, herausgeben von Ludwig Landgrebe, Hamburg, Felix Meiner Verlag,1999. フッサール『経験と判断』長谷川宏訳,河出書房新社,1975。
Edmund Husserl, Erste Philosophie, hrg.v.Rudolf Boehm, denHaag, Martinus Nijhoff, 1959.
Edmund Husserl, Analysen zur Passiven Synthesis, hrg.v.Margot Fleischer, denHaag, Martinus Nijhoff, 1966. フッサール『受動的綜合の分析』山口一郎・田村京子訳,国文社,1997。
Edmund Husserl, Formale und Transzendentale Philosophie, hrg.v. Paul Janssen, denHaag, Martinus Nijhoff, 1974.