方 美英
はじめに
韓国の新聞に広告がみられたのは1886年頃である。その後,広告は次第に増加した。この発表では,「出版(書籍)関連」広告に焦点をあてる。研究対象は,1886年から1910年までの『皇城新聞』,『独立新聞』,『大韓毎日申報』である。主な論点としては,新聞広告の統計およびその特徴を分析し,その中での出版広告を通して,当時の出版状況を検討する。各新聞社の広告形態など差異を明確にし,当時の出版流通を検討する。最後に,広告の内容と広告主の分析により,出版の意図などを明確にしたいと思う。しかし,いくつかの問題が現存することも認めざるを得ない。
1.近代新聞と広告
1)近代新聞と広告の状況
最初の広告ではないが,『漢城週報』第22号(1896年6月28日付)に「浜田商店」の名で日本の書籍広告が掲載された。日本企業と推測される。次は,「広告」欄の構成では,『皇城新聞』では,総4面で構成され,均等に広告が掲載された。『大韓毎日申報』では,5面(総6面)に,『独立新聞』は最後の誌面(総4面)の3段目に「広告」を掲載する。つまり,当時の新聞広告を通して販売ルートを開拓する動きは,まず,外国との関連が深かった企業からはじまり,次第に社会に浸透していったといえるだろう。
2)『皇城新聞』について
『皇城新聞』は1898年から1910年にまで累計8千件を超えた。特に1905年から3年間は,年に100件ずつほど急増し,出版関連の広告は全体の23%を占めた。このような増加は,『独立新聞』,『大韓毎日申報』でも見られる。また,広告主の国籍別に分類すると,韓国が81.88%,日本が8.15%,英国,アメリカが3%前後である。国籍別は資本提供などの分析をより細かく行い,いずれ明確にしたい。
3)新聞における広告料および購読料
『独立新聞』は1897年1月5日付の英字版に,1インチあたり,1か月は$1.20,3か月$1.15(月),6か月は$1.10(月)と広告料を掲載しているが,購読料は1年分で $1.30であった。また,『毎日新聞』の創刊号(1898年4月9日)の広告料および購読料では,一行につき80銭で,5行を超える1行につき70銭,10行を超えると1行につき65銭であった。『大韓毎日申報』は,1905年8月11日に4号活字13字詰めで6銭,2週日に2圓50銭,1ヶ月に5圓であった。期間の長短と字行の多少により増減する。これらの広告料と当時の物価を比較して,検討する必要がある。
2.書籍広告について
1)新聞社における広告の年度別変化
書籍関連の広告を中心に見る。『皇城新聞』は,書籍関係の広告は,約13年間の累計件数が1,880件で,1898年の46件から,1906年に234件,1908年に477件に上った。『独立新聞』は,1896年34件,1899年35件だが1897年には75件になっている。『大韓毎日申報』の書籍広告は第3・4面に掲載され,書籍関係,教育関係が増加した。1907年前後の広告件数の増加は,その広告対象である書籍の内容,社会情勢を踏まえたうえで,もう一度再検討すべきである。
2)書籍広告の内容
『大韓毎日申報』では,1905年は地理・歴史分野,1907年は小説類,1908年は辞書類・語学関連が多い。学校教育の変遷と関連付け,もう一度検討すべきところであるが,1895年3月25日の勅令第46号「学部官制」により,学部新設が深く関連すると推測される。ほかの新聞も同様の様子がうかがえる。
最後に
韓国近代新聞における「広告」の中で「出版関連広告」は,国民教育が主な目的に見えるが,具体的にみると書籍広告は単なる国民教育にとどまらず,様々な異文化や知識に対する民衆の欲求に答えていたと思われる。その一例は,1904年頃には,地理・歴史分野の書籍広告が多く見られたが,1908年頃には,政治,経済などの分野も多く見られている。最後に,広告主の分析では,新聞社,一つの出版元がいくつかの書籍を広告する,また,共同出版元の存在が明らかになった。これらの,多くの広告主は,韓国人であったが,その次に多かったのは日本人で日本の出版業者の動きも見られる。ここでは,具体的な事例をあげていないが,日本の書籍商と思われる個人名や会社名がみられる。現在,それに対する調査を進めていて,韓国の初期の出版業と日本との関連についても解明していきたい。
(紙面上,参考文献,引用文献は省略する)