試論「わかりやすさ」の視点から専門書出版の編集を考える
――認知心理学の知見を手がかりとして
大橋鉄雄
(フリーランス編集者・ライター〔法情報〕)
本試論は、専門書出版とりわけ法律分野の出版において、内容をわかりやすく読者に伝えるための技術として、これまでもっぱら経験的に工夫がなされてきた編集実務の世界に、客観的・科学的(具体的には認知心理学)の視点を持ち込み、先達編集者が実践してきた「わかりやすくする編集」の営みを検証する、という試みである。
認知心理学において、人間が「わかる」プロセスは、以下のように想定することができる。
①人間の脳には長期貯蔵庫と短期貯蔵庫の2つの貯蔵庫があり、記憶情報を管理している。→②外部からの情報を短期記憶にいったん貯蔵する(記憶時間、貯蔵量に限界)。→③いったん短期貯蔵庫に入った入力情報を、長期貯蔵庫にある記憶の中にある知識(スキーマ)の中に取り込む(同化)。同化は、既有知識を一層強固なものにする。→④既有の知識の中にうまく取り込めない情報が入ってきたとき(同化が難しかったとき)に、既有の知識の組み立てを少し変えたりして、何とかしてその新しい入力情報を取り込み(調節)、既有知識の変更をする。(「わかった」というゴール)→⑤調節がうまくいかず、既有知識の変更ができなかったとき、「わからない」ということになる。
以上に述べた「わかる」プロセスについての知見を元に、専門書出版における「わかる度」指標の作成を試みる。その際の具体的な視点を整理すると、①´「わかる」とは極めて個別性の高い「はたらき」であること、②´記憶の貯蔵庫には、時間的な制約や量的な制約があること、③´新たに入ってきた情報は、貯蔵庫にある既存の情報と照合し易い形態をとっていることが有効であること、④´個別の概念が全体の中でどういう位置にあるのか(体系性)を意識しながら理解を進めるのが有効であること、⑤´観念的な知識や結論においては、その手前に身近な例えを置き、ジャンプ台としてゴールを目指すのが効果的であること、である。
以上の視点に基づいて試作した「指標」は以下のとおりである。
(A)読者それぞれのわかり方に即した工夫がなされているか(読者の個別属性等への配慮)。
(B)読者の情報同士の照合作業に見合った、適切な情報量に分かれているか(情報量への配慮)。
(C)読者にとって、情報が照合し易い形態をとっているか(情報の形態への配慮)。
(D)全体を見ながら個別理解を深めることを可能とするように、意味の塊りを保ちつつ情報同士に体系性を持たせているか(体系性への配慮)。
(E)観念的な知識・結論に見合った、具体的で身近な例えを置くことにより理解を助ける工夫がされているか(例えを用いる配慮)。
(F)読者の「わかりたい」意志を促進させる工夫がされているか(受け手の意志への配慮)。
上記の指標に照らして、専門書(法律書)において「わかる度」がどこまであるのか、検証を試みた(あくまで論者単独の作業による)。詳細は略すが、以下の検証結果を得た。
(1)これまで、先達編集者が開発してきた表現上の営みは、概ね、「わかる度」の方向性に適ったものであるということができる。
(2)ただし、その効果を定量的に把握するのは難しく、それぞれどの程度の効果があるかは、未解明である。
(3)また、指標B(情報量への配慮)、指標E(例えを用いる配慮)、及び指標F(受け手の意志への配慮)の得点が比較的低かったことから、これらへの一層の配慮が、編集実践に求められる(または開発の余地がある)、という仮説が成り立つであろう。