鎌田大資
(椙山女学園大学)
本報告では,ハバーマスの公共圏論の日本版を意識しながら江戸時代の出版業の歴史を考察した。ハバーマスは,英仏市民革命の前後を中心に18世紀から20世紀中葉頃までを考察している。日本でも同時期に,代表的産地である京都,江戸のみでなく,地方各地にも木版印刷物が市販され,流通する形態が確立しつつあった。
桃山時代に一時的に試行された高コストな活字印刷のあと,江戸時代初期以降には,木版印刷が試行され定着した。当初は京都で制作される宗教書などが中心で特に規制の必要もなかったが,やがて切支丹禁令に抵触するキリスト教教理への言及を根絶させ,大名家や寺社など名望家たちに関する流言流布の防止を意図した規制が開始される。元禄期を中心とする綱吉時代の出版規制は,問題の所在も,幕府側の取締り方針も明示せず,統制側の意図や目的を読みとれない形で実施された。たとえば絵師,英一蝶や,江戸落語の開祖,鹿野武左衛門らは追放刑にあったことだけは確実と思われるが,処罰の理由は不明である(馬の物云う事件)。
吉宗の享保の改革に至り,享保7年(1722),南町奉行大岡忠相らの協力で,従来の出版規制の方針を集大成して周知させる触書が作成され,版元の株仲間による自主規制と幕府による書物の公認制度が確立する。統制側の意図が明示されたことで禁を犯す業者も減り,しばらく取締り自体が影をひそめる。
ところが,幕府が支配する知的秩序の刷新を意図する松平定信の寛政の改革により,世相批判の洒落本が処罰され,泥棒を見て縄をなう式の場当たり的な規制が再導入される。武士,町人を問わず同好の士が交わり,楽しみを共有していた天明期の狂歌壇は活動休止に追いこまれた。書き手不足に苦しむ新興有力版元,蔦屋重三郎が重用し,絵師から作者に転じた作家,山東京伝,俳諧絵本の挿絵画家から美人画の作者へと転じた絵師,喜多川歌麿らによって,文字表記を浮世絵に書きこむ技法として,のちに規制に抵抗する表現技法となった「判じ絵」が導入された(図1,2)。
それを幅広く体系的に発展させて一世を風靡したのは,天保期をはさんで活躍した歌川国芳である。国芳は「判じ絵」を文字絵としてだけでなく,家紋により物語上の人物と幕府の現役政治家を二重に表象するやり方でもちい,発禁処分を免れる多彩な表現を可能にした。ただし実際に規制を逃れるためには,取調べを受けても作品意図に関する言い訳となる故実を調査し,その風刺画により利益を得る勢力を後ろ盾として作に当たる慎重さが必要だったと推測される。「判じ絵」で,老中,水野忠邦のような幕府要人を批判する際には,幕閣内の反対勢力,幕府御用商人である版元などの多様な思惑や相互作用が推定されている。
上記の研究に際し,シンボリック・インターラクショニズムの伝統のうち,犯罪学とも関連するレイべリング理論の知見に言及し,時代相の特性を浮き彫りにする。革命終結後,帝政,王政,ブルジョワ政権と,政治制度の変遷が激しかったフランスにおいて,社会学という言葉は1830年代に造語された。そうした歴史を忠実に反映して,「憲法に守られ市民社会をもたらす公共圏」が成立し,人権思想の理念を組みこんだ最高法規としての憲法のもとにある社会に適用すべく,各種の社会学理論は構想された。
すなわち,享保以前の取締り方針自体が公表されない時代は,将軍家の恣意的な意向による処罰を受けた人々が罪の自覚を得て,社会的反作用として逸脱的なアイデンティティを形成するはずだというレイべリング理論の適用範囲外となる。同様に寛政改革期においても,享保改革でひとたび定められた基準に抵触しない作品も取締りの対象となり処罰を受けた。この際にも,従来の触書から敷衍して処罰の可能性を事前に知ることは不可能であり,取り調べを受けた側に犯罪者の自覚は育ちにくい。規制に対する社会的反作用として「判じ絵」の技法が確立していくことも,規制を受ける側がそれを逃れようと工夫した規制逃れの方策にすぎない。ただし,やがて幕末となり外様雄藩の連合による幕府打倒という事態が実現すると,寛政期に開発され出版物にその痕跡を止める「判じ絵」による批判の社会的影響力が増大していくことが予測される。今後,天保改革期,幕末期,明治,大正,昭和と研究を継続する予定である。
参照文献
鎌田大資,2015,「日本出版統制史再考――序説・江戸時代初期享保以前」『金城学院大学論集』(社会科学編),12(1):54-70; 2016
「判じ絵,迷走の果ての抵抗――絵師,作者,版元らの寛政改革への対処をめぐって」『現代社会学部紀要』10(1): 1-39.(中京大学)