大宅壮一の戦中と戦後 阪本博志 (2014年11月 秋季研究発表会)

大宅壮一の戦中と戦後――ジャワ文化部隊と「「無思想人」宣言」

阪本博志
(宮崎公立大学)

 大宅壮一(1900~1970)は,日本において大衆社会の土台が形成された1920年代に日本共産党シンパの評論家としてデビューした。そして大衆社会化が進む1950年代において,「「無思想人」宣言」(『中央公論』1955年5月号)に象徴される,冷戦下において左右どちらにも所属しない立場を標榜して活動した。この立場の推移を,鶴見俊輔は「前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型」と述べている(「後期新人会員――林房雄・大宅壮一」思想の科学研究会編『共同研究転向 上巻』平凡社,1959年)。本研究は,この「転向」という視点に加え,総力戦時の「戦争体験」という観点から,大宅の戦中と戦後を考えるものである。
 戦中の大宅を考えるうえで重要なキーワードのひとつは,「映画」である。大宅は,写真や映画といった複製技術に比較的早くから関心を寄せていた。映画については,理研科学映画株式会社編『理研科学映画創立五周年』(理研科学映画株式会社,1943年)巻末の「本社沿革年表」によると,大宅は1940年7月に同社取締役に就任し,1941年8月に取締役製作部長を辞任している。同社で大宅は,「我等の兵器」シリーズ等を製作した。そして,1941年10月に満州映画協会啓民映画部次長に就任している(『昭和十七年版日本映画年鑑』大同社,1942年)。
 1941年11月太平洋戦争不可避の状況下,大宅は満州から呼び戻され,今村均中将を軍司令官とするジャワ方面軍である第十六軍の宣伝文化部隊に徴用された。これは,ナチスの宣伝中隊に影響を受けてつくられた組織である。大宅を推薦したのは,『陸軍画報』社長を務めていた中山正男である。
 『ジャワ年鑑(昭和十九年)』(ジャワ新聞社,1944年[復刻版,ビブリオ,1973年])によると,1942年10月ジャワ映画公社が成立し,大宅はその理事長となった。同社は,1943年3月末をもって解散し,業務を日本映画社ジャカルタ支局と映画配給社ジャワ支社に譲渡委管した。早稲田大学大隈記念社会科学研究所編『インドネシアにおける日本軍政の研究』(紀伊國屋書店,1959年)によると,大宅は,1943年4月に設立された啓民文化指導所の総務に就任している。啓民文化指導所の開所式を報じる,日本占領下のジャワで発行された雑誌『ジャワ・バル』第9号(1943年5月,[復刻版,龍渓書舎,1992年])で,大宅は「啓民文化指導所本部及び映画部指導委員」として紹介されている。
 また『インドネシアにおける日本軍政の研究』によると宣伝班は,民族歌のレコードや民族旗を利用しながら1942年3月に上陸した。しかし,同年6月に軍が民族歌・民族旗をインドネシア人に対して禁じた。その後実施された三A[引用者注:アジアの指導者日本,アジアの守り日本,アジアの光日本]運動,ジャワ攻略1周年記念日を期して行われた「プートラ運動」のいずれもが,失敗に終わった。同書には,インドネシア人に対して日本人が横暴な態度をとっていたこと,民衆対策の主導権が宣伝班から軍政監部に移ったことなども記述されている。
 大宅はジャワでの経験を戦後多くは著していないが,宣伝班が当初民族歌のレコードを用いたがのちに民族歌が軍によって禁止されたことは,『黄色い革命』(文藝春秋新社,1961年)で回想している。大宅の担当編集者も務めていた半藤一利は,この民族歌の話を,大宅から直接聞いたという。さらに半藤によると,「「こんなことをやっていては,日本人は世界中から嫌われる。戦争を早く終結すべきだ」などと,軍にいちいち楯をついて,ついには憲兵から危険人物視されるようになっていたという」(『恋の手紙 愛の手紙』文春新書,2006年)。
 実際に中山は,1942年9月にジャワを訪れたときに「大宅から,いろいろと日本の占領政策に対する意見をきかされた」。中山はその意見を東条英機宛の書簡にするよう大宅に求め,大宅は手紙をしたためた。帰国後中山はそれを東条付の松村秀逸大佐に渡したが,手紙は松村の判断で握りつぶされた(『毒舌一代――大宅壮一を裸にする』太平出版,1966年)。翌年10月大宅は帰国し,農耕生活に入った。
 ところで鶴見は,近現代日本における転向には4つの時期的な山があるとしている。第一の山の頂点は,1933年の集団転向であり,第二の山の頂点は,1940年の新体制運動である。そして第三の山は,「敗戦による権力の移動にともなう新しい方向づけをもつ強制力発動の系列」であり,1945年8月15日にその頂点をもつ。第四の山は,「戦後の逆コースの開始」であり,1952年の血のメーデーの弾圧直後の時期が頂点である(「転向の共同研究について」,思想の科学研究会編,前掲書)。
 敗戦後の1947年に大宅は,『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表した。このなかで彼は上記第二・第三の山に言及したのち,第四の山を予見する記述をしている。そのうえで,「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。1950年ごろ大宅はジャーナリズムに本格的に復帰する。復帰後も大宅は,中立的な立場の標榜を続け,1955年の「「無思想人」宣言」発表にいたる。
 上述の大宅の戦争体験は,次の4つに区分することができる。第一に,映画工作への関与である。第二に,軍の占領政策の転換である。第三に,その転換への批判的言動である。第四に,その言動によってマークされたことである。このジャワ文化部隊での(とくに第二から第四の)経験により大宅は,変動の時には動かず静観するという考えを得るにいたったのではないだろうか。そしてこのことが,鶴見のいう第三・第四の山における,再転向・再々転向を避けることにつながったのではないか。以上から,転向とともに戦中のジャワ文化部隊での体験が,戦後の大宅の道を決定づけたのではないかと考える。

付記:本研究は,日本学術振興会科学研究費補助金(研究課題番号:24530642)による研究成果の一部である。