金子貴昭
(立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)
近世の本屋は,店頭に書籍の看板を掲げていた。これらの看板は,いうまでもなく書籍の広告であり,看板を店頭に掲げることにより,店先を行き交う人々に書籍の情報を知らせ,購買意欲を刺激する目的で製作・設置されたものである。書籍の看板の存在は,画証資料や現存する原物によってすでに知られている。本発表では,出版記録に含まれる書籍の看板に関わる記事について考察を行うことにより,看板とはどのようなものだったのかを指摘し,特に享保(1716~1736)以前において,書籍の看板が有した販促以外の機能について考察した。
まず,寛延4年(1751)創業の板元・佐々木惣四郎が残した記録『竹苞楼大秘録』に見える看板の記事を分析した。『竹苞楼大秘録』には,書籍の出版にかかった経費が記録されており,その中に看板に関わる経費も計上されている。それによれば,自店の店舗には板で作られた「板看板」を出していたこと,板看板とは別に,木版印刷による紙の看板があり,それらは数十~百枚程度を摺って,京・江戸・大坂の卸先の本屋へ配付していたことがうかがえた。
京都書林仲間が残した記録に『上組済帳標目』(以下,『済帳標目』)があり,その中には,上述のうちの「板看板」に関わると考えられる記事が複数見られる。それらの読解に先立ち,まずは読解に必要な前提の確認を行った。
第一に,近世出版機構において大きな問題であり続けた重類板である。重類板の出来は,既刊書の板株を持つ板元の既得権益を侵すものであり,これらを防ぐために本屋仲間による吟味(重類板の監視)が行われていた。第二に,本屋仲間による重類板の監視に用いられた「写本」(願写本,廻り本とも)の存在である。板元が1点の本を出版するための第一段階は,草稿たる写本を仲間行事に提出し,奥印をもらうことであり,写本を手もとに準備できていることは,その書籍の板株を確立するための第一段階が整っていることを意味した。第三に,既刊書の板株の権益は極めて大きく,既刊書の内容に抵触する本を新たに刊行したい場合,その既刊書の板株を所持していなければ,新刊書は重類板の咎めから逃れられなかった,という実態である。既刊書の再版や注釈書等の刊行にあたっては,既刊書(先板)の板株を所持していなければならなかったのである。この3つの前提をもとに,『済帳標目』に含まれる記事を読解し,看板と板株との関係について考察を行った。
『済帳標目』には看板に関わる記事が8件含まれているが,本発表では,宝永元年(1704)の「謙玉綱目」,同年の「詩学桂林」,宝永2年(1705)の「保元平治」横本,宝永4年(1707)の「病機撮要弁証」,正徳元年(1711)の「義仲軍談」,享保20年(1735)の「活幼全書」の6件の記事を引用し,元禄7年(1694)の「唯識玄談」,宝永元年(1704)の「円光大師絵詞伝」の2件は割愛した。
これらの記事から判明することは,(1)板元は,他店が看板を掲げた際に,自店刊行の既刊書の類板であると批判する場合があること,(2)批判された板元が刊行を取りやめる際,すなわち株立てを諦めた際,看板は行事を通じて既刊書の板元へ渡る場合があること,(3)その看板には,行事が裏書を認める場合のあること,(4)本の出来以前であっても,掲出済の看板を根拠に,他店刊行の書籍が,自店の刊行予定書籍の類板であると批判する場合があること,(5)行事の仲裁で相合板とする場合,看板の先後関係によって板株の割合を決める場合があること,(6)数年から十数年にわたり,看板を出している例があること,(7)写本・先板を所持していなければ,看板のみによる板株主張が退けられる場合があること,等である。総じて,板元間で板株をめぐる争論が起こり,その仲裁や裁定が行われる際には,写本・先板を所持しているか否かと同様に,看板も重要な判断基準となっていたことが判明した。
冒頭に述べたとおり,書籍の看板は,本来的には近刊の書籍を周知するためのものであり,書籍の販促を目的とする。しかし先に述べた(6)からは,看板が近刊書籍の広告という範疇を超え,より長期にわたる役割を果たしていたと考えざるを得ない。その役割とは,出来以前の書籍の板株所有を宣言するという機能である。つまり書籍の看板は,板元が新刊書の株立に着手するための初動として,また自店の企画を排他的に確保することを目的として,それらの書籍の看板を第一に製作し,ひとまず店頭に出しておくものだったと考えられるのである。
そのような目的の看板が横行したためか,元文2年(1737)正月頃に,看板のみでは株立てできないことが最終的に宣言され,板株所有を主張するための機能は享保を最後に失われることとなった。以後,重類板問題の裁定に看板が用いられることはなくなるのである。