塚本晴二朗
(日本大学法学部新聞学科教授)
プライバシー侵害が問題になる時侵害された側は,不法行為を主張する。プライバシー侵害で訴えられた出版社も,知る権利や表現の自由といった,基本的人権で対抗する。本当にそれで良いのだろうか。
1.権利の倫理学
ジョン・ロールズは,善を個人的な達成目標とする。個人的な達成目標であれば,他人のそれと価値的な衝突,あるいは逸脱のようなことが起こる可能性もありうる。そうしたものに制約条件を課すのが,正義である。正義が善に優先するのは,そもそも何が善であるかの範囲を社会制度の中に設定するのが,正義の原理なのであるから,正義に善が優先することはありえないのである。しかし功利主義の場合,最大多数の最大幸福を追求するのであるから,達成目標,すなわち善のほうが優先するはずである。人はどのような行為をすれば善になるのかを考え,その結果として何が正義かが明確になってくる,と考えられる。ロールズはこのような目的論を否定する。ロールズによれば,自我が達成目標を選択するのであって,あらかじめ達成目標が設定されているのではない。まず自我が存在し,その自我が数多くのものの中から目的を選択するのである。そして,その選択を行う前提として,正義があるのである。したがって,正義に基づく社会制度は,個々人に対して平等な自由の権利を保証する。つまり,正義を前提とする倫理学は,権利の倫理学と位置づけることができるのである。
2.共通善の倫理学
メディア倫理学の権威,クリフォード・クリスチャンズはコミュニタリアンの立場から,公正としての正義に基づく個人の権利が,共通善に優先することを否定する。なぜならば,個々人の権利は,個々人のアイデンティティの確立なくして,存在しえない。しかし,個々の人間のアイデンティティというものは,自らを取り巻く歴史や文化等の中から,確立されていくものである。ところが,共通善もまた歴史や文化等の中で確立していくものである。そうであるとすると,権利が共通善に優先するということは,権利は歴史や文化等と別個に確立するということである。要するに,個々人のアイデンティティの確立よりも先に,個々人の権利が確立するということは考えられないから,個人の権利が共通善に優先するということは考えられない,ということである。クリスチャンズによれば,我々が,価値や意味が前提とされ,それらの交渉が行われる,社会文化的な世界の中に生まれる以上,自我と善は別個に存在しえない。自由で平等な権利を保証するだけでは,価値としての善の衝突を避けることはできない。そこで共通善の追求が必要となる。つまり,コミュニタリアニズムの倫理学は,共通善の倫理学と位置づけることができるのである。
3.プライバシー侵害と共通善の倫理学
クリスチャンズは,プラバシー侵害の問題を,倫理学的な問題として捉えるべきである,と考える。プライバシーの問題を法的な「正」ではなく道徳的な「善」の問題とし,法的な定義が今日のプライバシーの問題に対応し切れておらず,法を超越したプライバシーの倫理学を確立することがジャーナリズムにとって重要である,としている。プライバシーの倫理学を確立させる必要がある理由を,クリスチャンズは三つあげている。第1に,公人と私人の問題を挙げている。第2に,ニューズの価値判断の問題を挙げている。第3に,自我と社会の関係に関する問題を挙げる。デジタル時代を迎えた今日,プライバシーの侵害は広範囲にわたる公的な問題となっている。それゆえ,同一基準の倫理学的枠組みが必要とされるのであり,その拠り所となるプライバシーの倫理学は,個人の権利に根ざすのではなく,共通善に根ざすものでなければならないのである。
4.出版ジャーナリズムとプライバシー侵害
出版ジャーナリズムの題材は,多くのノンフィクションにみられるように,過去の事件であって関わった人物も刊行時点では公人ではない場合が少なくない。過去の私人の出来事であれば表現の自由や知る権利と個人の人格権が衝突した場合,後者が優先される可能性は高い。その時必要なのは,権利の倫理学の視点ではない。そのような報道が我々社会の成員にとって,共通した意義や必要性があるかどうかという,共通善の倫理学の視点である。出版ジャーナリズムにとって,権利の倫理学に則らねばならないのか,共通善の倫理学に則ることができるかは,根本的な存立を左右する問題であるように思える。それゆえ,プライバシーの問題を,倫理学の問題として,それも共通善の倫理学の問題として,捉えていくことは,非常に重要なのである。出版ジャーナリズムが存立し続けるべきものであると考えるのならば,徹底的に議論していかねばならない問題である。プライバシー侵害に関する倫理学的考察をすること,つまり共通善の倫理学について考えることには,以上のような意義があると考えるのである。