カール・バウアー:ある出版人の生き方  佐藤隆司 (2010年11月 秋季研究発表会)

カール・バウアー:ある出版人の生き方  佐藤隆司 
(2010年11月 秋季研究発表会)

 カール・バウアー Karl Baurという出版人がミュンヘンにいた.
 1898年にミュンヘンに生まれ,1984年に同地で死んだミュンヘン人である.壁職人の子として生まれ,建築を学び建築士となったが,コールウェイ出版社の娘と結婚し同社を引き継ぐとともに,ドイツ出版界のために働いた人でもある.

 文学,美術など芸術を総合的に捉えようとするハンガリー出身のユダヤ人パウル・リゲテイ Paul Ligetiに出会って強い感銘を受け,彼の本を 1931年という,ユダヤ人の著作を出す事にはリスクがともなう年に,あえて出版した(注1).
 後年,彼自身も文化史の分厚い本を出している(注2).後述のように数奇な人生をたどってその回顧録をしるし,70歳の誕生日記念に出版するよう,家族からすすめられた.当初,自社から刊行したが,後に Deutsche Taschenbuchverlagというポケット版をもっぱらとする出版社のシリーズの中に入ることになり,彼の人生航跡は広く知られるようになった(注3).
 現在のコールウェイ出版社のサイトをみると,わずかな数のドイツ大出版社のひとつであり,どこのコンツェルンにも属さない独立の出版社としている.わが国では一般的にはなじみがないようだが,それは出版分野が建築,工芸,園芸に集中しているためと思われる.
 彼の人生の大きな特徴は,出版文化人でありながらナチ党員になったことである.彼の中には,人が生きるのは 「私」のためにではなく「我々」のためにであり,“Nation”のため,“Deutschland”のためにであるという考えが強くあり,また「義務」感を強く持っていた.そのような感覚は第一次世界大戦に従軍した軍隊活動の中で,また除隊後参加した地元バイエルンの青年団活動の中で高められていったようである.思想的には自らを社会主義者であるというが,マルクス主義でもヴォルシェヴィズムでもなく,同時にロシア嫌いでもあった.若人の中でも頭角を現すものを持っていたためと想像されるが,団体のリーダーからヒットラーに紹介された.彼はヒットラーの『わが闘争』を読み,そこに幼稚性,平面的,アジテーション的な要素を見抜きつつも,ヴェルサイユ条約後のドイツの置かれた政治的,経済的位置に鑑みて,国のために実際的に働く存在が必要だと思うようになった.そして 1930年 8月 1日,「転轍機が動いた」として,ナチ党に入党届けを出す. バウアー,尊敬できる人として,十代に出会ったイエズス会神父ルーペルト・マイヤーとハンガリー出身のユダヤ人文化史
 マイヤー神父はナチに抵抗し,囚われ,戦後まもなく亡くなったが,後にローマ教会から聖人に近い人として挙げられ,世界的に有名になった.バウアーは,当時まだ無名であったマイヤーからキリスト教のいう「愛」と「秩序」の概念を教えられ,強い印象を受けたという.
 リゲテイの文化史観によると,西洋における中世は「建築の時代」,ルネッサンスは「彫刻の時代」,近世は「絵画の時代」であり,「建築の時代」は組織的,集団的であるのに対し,「絵画の時代」は自由,個人的であるとする.こうした特徴が拠り合わされ波打ちながら移っていくのが,世界の歴史の流れであるという.ナチ時代は「建築の時代」で,組織,集団,秩序の時代であり,ヒットラーはそのシンボルである.このようなリゲテイの思想に強い影響を受け,バウアーは自らの文化史を描くことをライフワークとした.
 かくして彼はナチ党員であると同時に,出版人となった.若くして書籍業団体の代表格となる.伝統と格式のある「ドイツ書籍業組合」Borsenverein des Deutscherbuchhandelsの当時の会長オルデンブルグに乞われてその役員となり、また、「ドイツ出版社協会」Deutscher Verleger-Vereinの会長となり、国際出版社会議議 Internationaler Verleger-Kongress(1936年、ロンドン)出席,1938年にライプチッヒとベルリンで開かれた同会議では議長を務めた.その間,出版人としてかつナチ党員として,国,党と対応する立場に立たされる.彼らと激烈なやりとりをしながら,例えば紙不足問題に対しては業界のため粉骨砕身している.
 戦後,彼は苦しい立場に立たされた.自社,住宅ともに空襲で打撃を受け,会社は統廃合の様々な動きの中に置かれた.自宅に受け入れた難民からは邪魔扱いをされ,ナチ党員であった過去を告発されればよいという不穏な空気にさらされる.非ナチ化審査委員会 Spruchskammerで審問されることになった彼は,弁明してくれそうな3人に依頼するが,いずれも不調に終わってしまう.結局,煙突掃除人が告発者となり(彼は,専門家でない人間がそういう立場に立つのは正当ではないというが),極めて愚かな審問の後,バウアーは収容所送りとなる.厳しい境遇にありつつも,収容者の知識人が互いに講師となって収容所大学 Lageruniversit atを開き,トマス・アクイナス,ベルジャーエフを取り上げて自主ゼミを行ったことも,特筆すべき事柄であろう.
 後に彼は再び審査されるが,今度は年配の法律家が審問官となって,非該当者と判定されるに至った. こうしてみると,今や巨大会社へと成長を遂げたベルテルスマン社において,戦前から戦後にかけて社長を勤めたハインリッヒ・モーン(Heinrich Mohn, 1885-1955)の存在が,バウアーと極めて対照的に私の目には映る.ベルテルスマン社とモーンについては,本学会春季大会で発表したのでここでは繰り返さない.ただ,ナチ時代には様々な動きがあったこと,また様々な人物がいたことの一環として報告した次第である.


(1) Der Weg aus dem Chaos; eine Deutung des Weltgeschehens aus dem Rhythmus
der Kunstentwicklung / Paul Ligeti, Munchen,Verlag Georg D. W. Callwey, 1931, 306p.,135p.
(2)Zeitgeist und Geschichte; Versuch einer Deutung / Karl Baur, Munchen, Callwey Verlag, 1978, 484p.
(3) Wenn ich so zuruckdenke…;Ein Leben als Verleger in bewegter Zeit / Karl Baur, – Munchen, Callwey Verlag, 1978, 484p.Wenn ich so zuruckdenke…; Ein Leben als Verleger in bewegter Zeit / Karl Baur, Vorwort von Heinz Friedrich, Munchen, Deutscher Taschenbuch Verlag, 1985, 365p.