デジタル時代の公共性と出版の自由
山田健太
(専修大学文学部教授)
第1セッションは「本の進化と文化発展」をテーマとするもので,中韓両国からは主としてデジタル化が,本そのもの,あるいは出版作業全体にどのような影響を与えたかを考察する発表があった。これらに対し,あえて「デジタル時代の公共性と出版の自由」をテーマに設定し,そうした技術的革新によって出版活動の根底をなす〈出版の自由〉にどのようなインパクトを与えたかを問うこととした。それは,デジタル・ネットワーク化による出版の拡張が,かえって出版活動の独立性・多様性・地域性を失わせ,出版の自由を危機に陥らせる危険性があると考えたからである。そしてその歯止めは,出版に携わる事業者自身が,出版の自由の担い手として,多様性の維持やアクセス平等性の確保といった出版の「公共性」を確保することにあるといえるであろう。
また,言論・出版の自由を考えるにあたっては,公権力による自由の制約という古典的課題も改めて問題になりえる。ちょうど日本では,約70年ぶりに秘密保護法が「復活」し,出版の自由が大きな脅威にさらされることになったからである。しかもそのきっかけは,とりもなおさずインターネットを経由して政府情報が漏洩したとされる2つの事件であった。これはまさに,デジタル時代の出版の自由の問題そのものであるということを示すものであって,この課題を克服することが新しい時代の出版の自由の確立に貢献することになるに違いない。
さらにまた,2014年の日本は「国益とメディア」についての議論が沸騰している状況にあった。朝日の慰安婦報道訂正を受けて首相をはじめ政府は,「朝日新聞の誤報が世界に誤った情報を広め,日本の信頼を著しく傷つけた」と激しく非難している。同時に一部のメディアは,「朝日報道は国益を損ねた」と社説等で指摘をするに至った。ジャーナリズムの本旨は権力監視であり,その報道は目の前の政権の信頼を失墜させ,短期的には国家イメージを損ねることがありうる。しかし,広くそうした報道の自由を許容することで,社会全体が受ける利益を担保してきたといえる。それは,ジャーナリズムが求めるのは国(時の為政者)の利益ではなく,社会の利益あるいは市民の利益であると考えられてきたからである。
これらの問題を言い換えれば,情報の高度化が,国家の情報コントロールをより強化する方向に作用しつつある,といえるのではないだろうか。こうした大きな力,社会の流れに対抗するための1つは,公的情報は国民のものであるとの原点を忠実に実行することが考えられる。その原動力になるのは自由な出版活動であり,従来,ジャーナリズムと呼ばれてきたものである。このジャーナリズムの行動原理が〈公益〉であって,それを実現するためにもまた出版活動の「公共性」が求められているといえよう。