【学会賞】
藤實久美子
『武鑑出版と近世社会』(東洋書林)
[審査結果]
本書は,「近世に民間の書癖が刊行した出版物(板本)で,大名および幕府役人に関する名鑑」である武鑑を書籍史料として認識するという立場から論じている.そのために,個々の武鑑の理解を書誌学的な手法を用いて行い,さらに出版史研究の蓄積を生かして個々の武鑑を作成者である板元の活動の中に位置づけると共に,出版物としての武鑑を社会的に位置づけるというぐあいに,学問的作業を緻密に行っている.
そして,論を展開するための典拠とする史料についても,その操作を行う際の留意すべき点について検証するなど,実に厳密な作業を経ているが,そうした努力によって,近世社会における出版物としての武鑑の意義を明らかにし,社会的な位置づけをしている.その過程で,近世の出版界の構造分析も見事に成されており,今後の出版研究の方法論も示唆している.
[受賞の言葉]
研究の原動力は… 藤實久美子
このたび思いがけず,第21回日本出版学会賞〈学術書部門〉を頂戴いたしました.まず,賞の選定に当たってくださった日本出版学会の役員と審査委員の皆様のご推薦に心から感謝申し上げたいと思います.以下,現在の研究関心に沿って,拙著『武鑑出版と近世社会』の内容をまとめたいと思います.
「武鑑」とは,武家(支配身分)の,すなわち大名・幕府役人の名鑑をいいます.「武鑑」は,一貫して民間の書肆から出版された点に特長があります.これは江戸幕府が基本的に直営の出版所を持たなかったためです.それにより,江戸時代に出版事業は国家権力からまず統制されるものでありました.
そこで私は,「武鑑」を出版した書肆に対する統制について考察しました.その際,留意したのは,近世社会が身分制社会であったという点です.幕府は書肆が属する集団について「本屋仲間」「地本問屋仲間」という階層性を設けました.また特定の書肆(出雲寺家など)を御用達町人として抱えて相応の身分証憑を与えました.これらが書肆の経営・営業面に与えた影響を,立論の基礎に組み込んで考えたのです.
また身分制の問題について,「武鑑」の社会における受容の多様性という点からアプローチを試みました.そこで明らかになった事柄は以下のものです.幕府上層の役人・一部の大名は「武鑑」の記事は誤謬を免れないとして打ち捨て,一部の大名家では「武鑑」のメディアとしての影響力に着目して,系図部分の書換を書肆に命じ,自家の過去に関する社会の認識を変えようとした.大名の家臣や町奉行与力,村の名主などの中間層は実務に利用し,さらに幕府の役職名を覚え易いように「武鑑」から双六などを作った.江戸の庶民,いわゆる被支配層の人々は,「武鑑」から幕府役人の抜擢・左遷を読み取り川柳に読んで,楽しんだ.あるいは板面に幕府御用達とあるのを良いことに,人々を手玉にとるといった算段を企てた「悪党」もいたというものです.
同一の板面が各階層,さらに各階層内部で,様々に解読されて,現状に対する認識を醸成し,あらゆる行為を引き起こしました.書肆の手を離れてのちに社会を漂う出版物の行方は,先に示した出版物の作成を規定した国家権力の問題とともに,拙著の柱をなしています.
近世社会と現代社会との違いは,やはり身分制の存否にあると思います.そのため拙著では,身分制社会での出版業の形態・出版物の受容の様態の解明に努めました.ただし,身分制は消えても現代社会には階級・富の偏りがあります.これを出版メディアを取り囲む環境の一つとして意識し,出版メディアへの影響を考えてみたい.恐らくこれが,現代社会に足場を置く私の,研究の原動力であったといえます.しかしこのように書く一方で,果たしてこの問題関心だけが研究の原動力だったか,とささやく自分もいます.正直にいって,研究を続けるほどに自己分析が混迷をきわめ,あやふやになっています.複雑さを増している自己認識を思うにつけ,つくづく修行・勉強が必要だと痛感しています.
【学会賞】
宮田 昇
『翻訳権の戦後史』(みすず書房)
[審査結果]
「翻訳権十年留保」問題を縦糸にして,欧米諸国および日本の翻訳権をめぐる歴史的経緯が詳細に論じられているが,1888年のベルヌ条約創設に始まり,戦後から今日に至るまでの「翻訳権十年留保」問題の軌跡を辿りつつ,日本を著作権保護後進国とする神話を解体させた力作である.明治・大正・昭和初期に至る文芸翻訳の実態を調査し,日本の出版物における翻訳書の占める割合が少ないことを指摘し,GHQ占領下における著作権統制の変遷と,その真のねらいが反共の砦としての日本民主化政策の一環であったことなどが明らかにされる.そのために,著者は十数年にわたって関係者に取材し,さらに百回以上も国会図書館に通って資料の発掘をしながら傍証を固めるが,長年翻訳出版の実務に携わった経験も生かされ,説得力を持つ内容となっている.なお,著者は本年,『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)という回想記も刊行しており,この本も合わせて読まれるべきだろう.
[受賞の言葉]
布川・美作両氏の軌跡を追って 宮田昇
受賞の御礼を申し上げた際触れたが,審査員の方々に,あの400ページを越える著作を,きっちり読んでいただいただけでも嬉しいかぎりだった.そのご労苦は,審査報告を見てよくわかった.その重要性を理解されにくい著作権に関わることだけに感謝したい.
日本出版学会には,創立メンバーで会長を勤められただけでなく,未だに他のマスコミ関係者から畏敬の念をもって見られている布川角左衛門,美作太郎の両氏という著作権の権威者が,かっておられた.両氏とも著作権関係の著作を出されているが,公的には,前者は著作権制度審議会の委員,後者は著作権審議会の委員の任を果たし,1971年改正の現行著作権法では出版界を代表して活躍された.
このたび日本出版学会賞を受けた私の『翻訳権の戦後史』は,この布川・美作両氏の著作権に関する業績の軌跡とあい重なっている.占領下の著作権による出版統制と,戦前の円本合戦の末,先人が獲得した設定出版権を守らなければならない制約があったが,その中で業界人としてだけでなく,出版法制としての著作権を理論付けし啓蒙をした.本書を書き進めていく中で,否応なくそれに触れざるを得なかったわけだが,当時は不明であった戦前戦後の「無断翻訳」の実態や,占領下の入札の真の目的を,私は解明したと思う.それが両氏の出版界・出版学への貢献に多少でも花を添えるものであればよいと思う.
だが両氏亡き後,出版の根幹ともいうべき著作権の分野で,なにをなしえたかというと忸怩たる思いがある.美作氏が当初委員であった著作権審議会第8小委員会が10年前答申した「出版者の権利」が,未だに法制化されていないからである.デジタル化,ネットワーク化が急速に進む中で,発意と責任で著作物を世に送り出した出版者の権利が確立していないことの危うさに警鐘を鳴らすだけでなく,その必要さを理論化することこそ,実学としての出版研究が出版界になしうる貢献であったはずである.
しかも「出版者の権利」は,著作権審議会の答申した案の中で,実現されていない唯一のものである.1999年は著作権法制定百年であったにもかかわらず,それにもっとも関係があった出版人大会の宣言に,一言も触れられなかったこととあわせて,空白の10年の責任は重いと,受賞を兼ねた学会30周年記念の式で,改めて自分にいい聞かせた.
【学会賞】
城市郎コレクション,米澤嘉博構成
『別冊太陽発禁本-明治・大正・昭和・平成』(平凡社)
[審査結果]
昭和31年から現在に至るまで,集め続けてきた膨大な数の発禁本を,明治初年の発禁第一号から,宮武外骨,梅原北明,江戸川乱歩,小林多喜二の著作や戦後のカストリ雑誌,写真集などまで眼配りして紹介し,130年にわたる出版文化の裏面史を浮き彫りにした労作である.内容は猥褻本ばかりでなく,思想,文学,芸術,時局批判などで国家によって禁止・摘発された書物の数々を,出版人の情熱を描きながら,豊富な書影と共に掲載している.本書は,発禁とされたものすべてを網羅的に集め,抗議や批判などによって自主回収したもの,自治体や流通により販売が見合わされたものまで,幅広く視野に入れて扱い,それぞれ,発禁とされた時期,発禁とされた原因,処分方法などについて詳細な記述が行われ,これだけのカラー図版と発禁に関する詳細な情報を盛り込んだ本書は,出版史を研究するものにとって有益な第一次資料となるだろう.城市郎氏の蒐集の執念と,米澤嘉博氏のたくみな構成および両氏の文章が一体化し,貴重な出版研究の書となっている.