産業的実態と出版学 (会報126号 2010年1月)
湯浅俊彦
私と日本出版学会の出会いはじつに奇妙なものである。1985年11月に関西学院大学で開催された秋季研究発表会におけるシンポジウム「いま,読者をどうとらえるか―出版社,取次,書店の立場から」の記録を『出版ニュース』で読み,このシンポジウムに出席していた関西学院大学の芝田正夫先生に手紙を送ったのがそもそもの始まりである。
このとき私は一面識もない芝田先生に対して「出版学会がいかに書店現場の実態からかけ離れたところで議論をしているか」を批判し,私が編集・発行していた書店労組の読者向け機関誌を送りつけたのであった。
私は日本出版学会の向こうを張って,翌年から書店労組主催のシンポジウムを開催した。1986年「古い書店 新しい本屋」,1987年「本屋が危ない!―書店にみる出版メディアの危機」,1988年「読者は変化したのか?」,1989年「出版の自由と差別―『ちびくろサンボ』とポルノを中心として」と毎年,多くの書店員の参加を得て大阪で開催される書店シンポジウムでは熱い討論が繰り広げられた。
私はその時,書店労組の方が出版学会よりもよっぽど産業的実態に留意し,現場の課題を析出し,読者に開かれた議論を展開することが可能であると自負していたのである。
ところで私が送ったきわめて無礼な手紙は普通なら黙殺されてしかるべきところを,なんとも懐の深い芝田先生からは逆に私が編集していた機関誌を定期購読したいと申し込みの手紙を頂戴した。そして1989年,ついに私は日本出版学会の会員となり,その後は関西で開催される秋季研究発表会はもちろん,2009年からは関西部会長という形で研究会の運営にかかわっていくことになるのである。
今日,日本の出版産業は長期低迷の様相を呈しているが,私は出版メディアのさまざまな現場の困難さに思いを寄せずにはいられない。とくにデジタル化とネットワーク化を特徴とする現在のメディア環境の中で出版産業が苦戦を強いられていることをよく知っているつもりである。そして日本出版学会が出版の産業的実態を無視したところで発展することはありえないと考えている。
それはなにも産業的繁栄をめざすのが出版学であるという意味ではまったくない。ただ,産業的実態という事実から始めることが大切だということを言いたいだけなのである。もちろんそこには複数の事実が存在し,一筋縄でいくものではない。しかし,実務者と研究者の双方が会員となって,切磋琢磨しつつ研究を進める日本出版学会の方法論はじつにしたたかなものではないかと私はひそかに思っているのである。