侵触する本と演出用の本棚の話  諸橋泰樹 (会報124号 2009年4月)

■ 侵触する本と演出用の本棚の話  (会報124号 2009年4月)

 諸橋泰樹

 自分の蔵書が何万冊あるのかわからないが,町立図書館レベルよりは冊数があるのではないかと思う。が,狭い自宅マンションの,小・中学校以来の蔵書がある「勉強」部屋は,ドアの前に本を置いて長らく放置してしまったため,ついに「あかずの間」と化して15年近く,60年代から80年代までの日本文学,仏文学,英文学,社会学,心理学,文化人類学,政治学,岩波新書などが,「あるのに読めない」状態が続いている。
 その間,玄関の靴箱の上,トイレ,母親の寝室(マンガ専用),食器棚の上,とアメーバ本は侵蝕してゆき,ほどなく居間のテレビの前とピアノの上にも平積みされた。本が邪魔してテレビのリモコンのスイッチが入らないことがあるどころか,本の隙間から画面を観る有様だ。出版学会の諸兄諸姉も同様な暮らしぶりだろう(そして家族の小言も)。
 90年代半ばからは,自分の寝室兼用の部屋にあるいくつもの本棚やスライド書棚の前に,二重三重に天井近くまで平積みされることとなり,とうとう現在では敷き布団で寝るスペースすらほとんどなく,寝返りも打てない状態が続いている。朝起きると肩が凝っているほどだ。
 地震があったら圧死である。しかも,本棚の前にさらに何重にも横置きして積まれているため,ここでも「あることがわかっているのに取り出せない」。
 そのためもあって,「2冊目」の本を大学の研究室に置くようにしている。マスコミ論,社会学などの古典や思想書,大江から小田実,高橋和巳など60年代・70年代ものが重複本の中心だが,家で見つからない時に便利だし,授業準備や論文を書くときにも重宝している。だがこの研究室でももはや本棚が足りなくなり,膨大な会議書類や学生レポートとともに「足の踏み場」がなくなりつつある。
 この「研究室の本棚」,学者がテレビでコメントを録画されたり,新聞・雑誌のインタビューで写真が掲載される時の,必須アイテムだ。彼ら・彼女らは必ずと言っていいほど研究室の本棚の前で画像に収まっている。
 メディアリテラシーに関する自治体の講座や大学の授業などでそういう映像を見せると,受講者や学生はもちろんその「意味」を感じ取り,アカデミズムの「権威」や「知識」を背景に番組に信頼性を持たせようとする一種の「演出」「やらせ」であることを見抜く。「研究室に本がない」学者(実在する)は,他人(ひと)の研究室を借りてでも本棚をバックに撮りたいのが作り手の思いであろう。
 ご多分にもれず,テレビや新聞・雑誌が来て研究室の本棚の前で映像や写真を撮録されることがあるが,棚の本の前にはゲームセンターのUFOキャッチャーで捕ってきた綾波レイだのラムちゃんだののフィギュアがいくつも並んでいる。
 ファインダーをのぞいた写真記者は一様に「それ,どけません?(オタクについてのコメントじゃないんだし)」と言うが,なるべく従わないようにしている。それでは自然状態の普段とは違う「演出」「やらせ」になってしまう,とも言えるからだ。
 ささやかな“抵抗”が伝わっているかどうか,メディアリテラシーが必要なのは作り手側でもある。

(日本出版学会・副会長,フェリス女学院大学教授)
(初出誌:『会報124号』2009年4月)

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