紙の博物館所蔵『日本外史』原稿用紙について 三村泰一 (会報139号 2015年2月)

紙の博物館所蔵『日本外史』原稿用紙について

三村泰一
(東北大学大学院情報科学研究科博士課程後期)

 紙の博物館が所蔵する『日本外史』原稿用紙は,初期の原稿用紙の一例として紹介されることが多い。松尾靖秋『原稿用紙の知識と使い方』(南雲堂 1981年)では,「今日の意味における文字通り原稿用紙の嚆矢と考えられる」とし,「彼(頼山陽:引用者注)が『日本外史』を執筆するために特別に作らせた」もののようだとしている。ウィキペディアでは,「現存する最古の原稿用紙は,頼山陽が『日本外史』を記すのに用いたマス目様の用紙」(2014年10月6日閲覧)としている。
 『日本外史』は,頼山陽が源平から徳川氏までの日本の歴史を論じた史書で,文政9年(1826)に完成,翌年に老中松平定信に献呈された。天保7,8年頃(1836~37)に木活字で刊行されたほか,弘化元年(1844)には川越藩の学舎である博喩堂から『校刻日本外史』として刊行された。嘉永元年(1848)に,須原屋茂兵衛,河内屋喜兵衛らによって出版されたものなどもある。
 その頼山陽の原稿用紙といわれる資料を閲覧できる機会に恵まれた。1951年に収蔵されたという記録はあるが,どのような経緯で入手したものかはっきりしない。枡目は22字詰めの20行で,用紙中央部,和書でいう版心の部分で二分されている。上部に「日本外史」とあり,その下に魚尾,さらに「巻之」と刷られている。いわゆるルビ罫が,間の罫線で二つに分割されているところが興味深い。不審なのは,松尾氏も指摘するように「一つのマス目が縦八ミリ,横五・五ミリと極めて小さいこと」で,毛筆で書くにはかなり窮屈であろう。
 ところが,安藤英男編『頼山陽選集6巻 日本外史』(近藤出版社 1982年)を見ると,口絵に『日本外史』自筆稿本の写真があり,これは縦罫のみが入った用紙に書かれており,1枚表裏合わせて18行,各行の文字数は一定ではない。紙の博物館所蔵の原稿用紙同様,版心には「日本外史」という題号と魚尾があるものの,「巻之」の部分はなく,その違いは明らかである。頼山陽史跡資料館の花本哲志氏によれば,やはり「日本外史」と版心に印刷された縦罫線のみの用紙が同館に所蔵されており,行数は18行,1行の幅は14ミリとのことである。つまり紙の博物館資料は,頼山陽が草稿として使った原稿用紙ではなさそうである。
 ところで上記の板本のうち,川越版『校刻日本外史』は,22字詰めで表裏各10行であり,紙の博物館の「原稿用紙」に字数・行数が一致する。すると,これは板本を作成するさいに使われたものと考えられないだろうか。つまり,頼山陽の原稿を元に筆耕が『校刻日本外史』の板下を書くための用紙である。ただ,この仮説には欠点がある。資料と川越版の一本である国会図書館本の匡郭を比べると,天地は約162ミリでほぼ一致するものの,左右は238ミリ(資料)であるのに対し,国会図書館本は235ミリと若干小さい。版心題の書体の違いも気になる。ただ,それはそれぞれの板木の保存状態が原因かもしれない。また木版だけでも各種刊行された川越版の一つに一致するものがあるかもしれない。
 マス目が著述に使用する用紙としてはあまりに小さいこと,ルビ罫部分をわざわざ二分割して,返り点・送り仮名のスペースとしていることなど,板下用紙と見れば納得できる要素は多い。著述用としてではなく書籍用の文字を書くためなので,マス目も小さいのである。自筆草稿用なら,ルビ罫を二分する必要まではないだろう。
 板下の紙は板木に貼り付けられ彫られてしまうので,使用後は残らない。これは,『日本外史』の板下を作った時,その板下の書式を一定にするために作られた板木がたまたま残り,それで刷られたものの可能性が高い。そうだとすれば,今日の意味での原稿用紙ではないが,江戸の整版印刷の歴史を考えるうえでの貴重な史料といえる。また,本資料のような用紙の形式が,後世の原稿用紙に影響を与えた可能性も考えておく必要があると思われる。