羽生紀子
2002年7月10日(水)~13日(土),ロンドン大学にてSHARP第10回大会が開催された.日本人には馴染みやすいSHARPの名称であるが,某企業とは何ら関係なく,“The Society for the History of Authorship, Reading and Publishing”の略である.“Authorship, Reading, Publishingの歴史”を学問するという,はなはだ意欲的な名称であるが,そのまま訳すとスマートさに欠けるので,必要な場合,私は「国際書物文化史学会」と訳すことにしている.「書物」という概念でくくりきることはできないのであるが,今のところ良い訳が思いつかないでいる.
さて,本稿はロンドンで開催された学会を報告するのが目的であるが,日本ではこの学会の知名度が十分ではないように思われる.まず初めに,学会の紹介をしておきたい.
SHARPは1991年に設立された.西欧においては,書物に関する研究の歴史は古いが,リュシアン・フェーブル&アンリ・ジャン・マルタンの“L,Apparition du livre”(1958年,邦訳『書物の出現』)以降,「Book History」研究としての新たな歴史が始まった.以後,Book History研究は着実に広がりをみせていたが,問題はその研究が広範な分野にかかわるものであるゆえ,研究者が孤立を余儀なくされることであった.学際的な学問であるがゆえに,陥りやすいそのような状況を打開するべく,SHARPは研究者のグローバル・ネットワークの形成のために設立されたのであった.
学会は1年に1回,アメリカ-ヨーロッパで交互に開催されている.学会誌Book Historyは,今年第5号が刊行された.季刊のニューズレターも発行されており,現在11巻3号に至る.提携する学会は34にのぼり,2001年度の名簿によると,会員数は30ヶ国,1054名である.国別で見ると,最大はアメリカの732名,次いでイギリス110名,カナダ84名といった状況である.日本在住の会員は6名であった.
ところで学会とはいっても,中枢の人間でもない限り,普通会員が実際に学会と関わる機会はそう多いものではない.特にSHARPのような欧米中心の学会で,こちらは日本,というような状況では,日常的にはニューズレターが届いた際に,遠き国を思う,という程度のものになりがちである.しかしながらインターネット時代の現在,SHARPへのアクセス方法として,ウェブ・サイトが用意されている.
SHARP学会員ではなくても,多くの方がすでに利用されたことがあるのではないだろうか.SHARP Web(http://www.sharpweb.org/)を開くと,そこには世界(欧米)のBook History研究が凝縮されている.さらに,それらの情報源と並んで注目すべきは,SHARP-L(The Electronic Conference of Book Historians)である.これはいわゆるインターネット掲示板で,日本の場合,哀しいことに,
こういうものはすぐにいかがわしい系の利用が突出してしまう.が,SHARP-Lでは,数多くの研究者がオンライン上で情報交換を行っており,効果的な学術利用の好例となっている.
さて,学会報告に移ろう.実をいうと,海外での国際学会への参加は今回が初めてであった.その印象はというと,とにかく皆がよく話す.発表会ではディスカッションが多い.形式的なやりとりに慣れている身としては,その情報交換の勢いに圧倒されることしきりであった.出席登録者数が283名であるのに対し,プログラムに記載されている発表件数は156件,この中には当日キャンセルになった発表も含まれてはいるが,出席者の半数程度が発表をしていることになる.発表が平行して5ヶ所で行われ,午前中第1部,第2部,午後第1部,第2部,と行われる(各部会は1時間30分)のであるから,まずその量には圧倒された.その他にも2つの講演とパネル・ディスカッションが行われた.
日本からの参加者は,日本出版学会会員ではアマデオ・アルボレーダ,遠藤千舟,羽生紀子.発表予定の箕輪成男氏は欠席であった.羽生はアルボレーダ氏と「“Author brand” books in commercializing publishing in Japan」と題して12日(金)第1セッション第1番目に発表を行った.続いて発表予定であった箕輪氏の題目は「Demythologising Book History」であった.出版学会会員外では,Graham Law氏(早稲田大学)「Trollope and the Newspapers」(10日),堀啓子氏(学振特別研究員・北里大学非常勤講師)「The Newspaper Serials in Japan in the End of the Nineteenth Century」(12日第2セッション).昨年のバージニアでの大会では,アルボレーダ氏,高木眞佐子 氏の発表が行われており,今年はさらに多くの日本在住者による発表があったことになる.
この10年あまりのうちに,欧米では書物史関係の研究所や大学院課程が創設されるなど,研究体制が整備された.創設から10年あまりの若い学会組織ではあるが,SHARPは世界的な研究者コミュニティとして中心的な役割を果たしている.しかしながら,東洋からの研究者の参加は非常に少ないのが現状であり,それに伴って,研究内容も欧米のものに偏る傾向がある.東洋の書物史をかじる人間としては,その構築されつつある理論に,時おり不満を感じる場合もある.発展を続けてきた欧米の書物史研究も,近頃その方向性に若干の迷いが生じているようにも見受けられるが,東洋の研究とのリンクによって,書物史研究の新たな地平が拓けてくるのではないだろうか.
(はにゅう・のりこ 英国レディング大学・ロンドン大学 客員研究員)