プレイボーイと日本の出版人
フィル・トモソビック
(香港中文大学大学院日本研究学科 修士課程2年)
大衆メディアに初めて男性誌が登場したのは60年代であった。『平凡パンチ』(1964)、『週刊プレイボーイ』(1966)、『週刊ポスト』(1969)は当時の男性誌の代表であろう。しかし、数多くの男性誌が刊行されると同時に、50年代から出版されていた大衆週刊誌が男性読者をターゲットにするために改造されるという現象も見られた。代表的な一般誌である『週刊大衆』(1958)、『週刊現代』(1959)、『朝日ジャーナル』(1959)などは、60年代後半までに男性読者向けに大幅に路線を変更したため、各誌を平均すると9割の読者が男性となった。
この二つの現象を含む“60年代における男性誌の登場”には、アメリカの『PLAYBOY』誌が影響を与えたのではないかと考え、以下の男性3誌に着目し考察した。
『週刊現代』は戦後の週刊誌ブームの中で1959年に講談社が刊行した一般大衆雑誌の一つである。平成天皇のご成婚を中心とした1号からしばらく、社会・世界情勢・文化・連載小説などをおもに掲載しており、ジェンダーは特段意識されずにいた。しかしながら1962後半年から、センセーショナリズム、色気、及びジェンダーを雑誌の一部として、編集方針の変更を行った。その背景は、講談社の著名な編集局長椎橋久が1962年4月にプレイボーイ社へ訪問(日本からの雑誌調査団の一員としてアメリカの出版業界の視察に参加)し、プレイボーイ誌の迫力を視察したことにある。彼の帰国後より『週刊現代』は青年男性向けの特集記事と女性のヌード写真(アメリカのヌード)を掲載し始め、徐々に男性をターゲットとする雑誌となっていった。椎橋久も1964年1月から『週刊現代』編集局長ともなり、サラリーマン向けの編集を維持した。
『平凡パンチ』は1964年に創刊された日本で初めての本格的な男性誌であり、マガジンハウス(旧:平凡出版株式会社)の著名な編集局長兼代表取締役副社長であった清水達夫によって考案された。清水氏は1962年末にプレイボーイ社を訪問し、プレイボーイ社の当時の副社長Arthur Paul(アーサー・ポール)とも面会した。またチーフカメラマンDon Bronstein(ドン・ブロンスティン)とも会った。彼はこの訪問に多分に示唆を受けたと思われる。翌年からは『平凡パンチ』の準備に着手した。『平凡パンチ』の特集記事、金髪のヌード、キャラクターマークなどに、『PLAYBOY』誌の影響が見られる。
『週刊プレイボーイ』は『平凡パンチ』に対抗するため1966年に創刊された男性誌である。同年に集英社もプレイボーイ本社を訪れた。目的はプレイボーイのライセンス使用の許可を得るためであった。というのも、集英社はアメリカのプレイボーイ社へ訪問する直前に、カタカナ名の“プレイボーイ”の商標権(カストリ雑誌を発行していた出版人が1958年に商標の登録手続きを完了済)を1966年4月末に購入していたためである。しかしプレイボーイ社からライセンス取得許可を得られなかったため、訪問直後に、小学館の社長兼集英社の会長であった相賀徹夫が英語名の“Playboy”の商標をも登録することを1966年5月初頭に決め、集英社の社長陶山巌が登録した。この後に、プレイボーイ社の社長Hugh Hefner(ヒュー・ヘフナー)はこの二つの商標に対して法的に対抗したが最終的に1974年に高等裁判所まで争った訴えを取り下げたため、晴れて二つの商標権を得た集英社は、『週刊プレイボーイ』についで『PLAYBOY日本版』(提携版で1975年に日本へ登場)の両誌をリリースすることができた。本発表では『PLAYBOY日本版』については具体的に触れなかったが、『週刊プレイボーイ』については名前の由来、雑誌の記事構成、写真などから『PLAYBOY』誌に大きく影響されたと推測される。
今回は『PLAYBOY』誌の影響に限って調査・分析したが、“60年代における男性誌の登場”を説明する要因としては、50年代の日本の男性ファッション誌の人気、戦後の経済復興、ホワイトカラー(サラリーマン)の意識の高まりなどもあげられるだろう。
参加者:12名(会員6名、一般6名)
会 場:日本大学法学部三崎町キャンパス 10号館6階 1062講堂
(文責:トモソビック・フィル)