1970年代雑誌言説研究――『ニューミュージック・マガジン』を手がかりに 山崎隆広 (2015年10月16日)

■雑誌研究部会 発表要旨(2015年10月16日)

1970年代雑誌言説研究――『ニューミュージック・マガジン』を手がかりに

山崎隆広
(群馬県立女子大学文学部総合教養学科准教授)

 1969年に創刊された『ニューミュージック・マガジン』は,音楽誌でありつつそれ以外の文化,社会事象に対しても極めて意識的かつ批評的な姿勢を持った雑誌であった。毎年二桁成長を続ける’60年代日本経済の末期に創刊され,拡大していく’70年代の出版,音楽産業とともに成長を遂げていった『NMM』は,誕生から10年を経た1980年,『ミュージック・マガジン』へと誌名を変える。その10年間,『NMM』は文化,社会とどのように向き合い,いかに「ポップの波打ち際」を歩いたのか。本報告では,主に『NMM』が創刊された1960年代末における出版界およびポピュラー音楽界の状況から,後に「日本語ロック論争」として知られることになる1971年『NMM』誌上の言説などに焦点を当て,同時期の日本の雑誌メディア環境を考察した。
 1960年代末,それまでのエレキやGS,歌謡曲などとは異なるメッセージや新たなメディア表現技術が取り入れられたニューロックの新たな潮流は,日本ではURC(アングラ・レコード・クラブ)が輩出する関西フォークに代表される社会的メッセージを前面に出した表現と合流し,当時の若者達を中心にポピュラー音楽の聴取環境に新たな地平を開いていった。同時期に創刊された『NMM』もまさにその潮流の中にあったが,そういった動きはまさに社会の〈情況〉と呼応するかのように大きく変容していく。1970年代になると,社会に対する重く,批判的なメッセージを含んだ楽曲よりも,聴衆は内省的であってもより個人の問題と向き合う楽曲の方を求めた。ポピュラー音楽産業の売上は拡大し,「日本洋楽」と呼ばれる欧米のレコードも普及し始めたが,そこから政治的メッセージやイデオロギー色は薄まっていく。CMとレコード会社がタイアップした商業主義的な体制が確立され,ポピュラー音楽はそのシステムの一部として組み込まれていった。
 社会の〈情況〉を〈運動〉として雑誌作りに反映させながら,オイルショックも乗り越え,ビジネス的には順調に成長を遂げた1970年代中葉の『NMM』だが,「政治の季節」における社会変革の夢は挫折とともに終わり,その後は雑誌も如何に〈他者〉を受け入れていくかという問題に向かっていく。報告者にとっても,その後の『NMM』をはじめとする同時代の雑誌メディアの言説を分析していくことが今後のテーマとなる。
 当日は会場の参加者の方々からも音楽誌というメディアの機能や,他のサブカルチュラルな雑誌との連関についてなど様々な質問を寄せていただき,活発な議論が展開された。
(文責:山崎隆広)