日本における「ピーター・ドラッカー」の受容と展開
――雑誌メディアと流行に関する一考察
牧野智和 (日本学術振興会)
2000年代の出版業界における1つの「事件」に,275万部以上(電子書籍含む)を売り上げた岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(ダイヤモンド社,2009)のヒット,および前後で起こったドラッカー・ブームがある。なぜこのようなヒット/ブームは起こったのだろうか。その主張が正しいから,という解釈もありえるのかもしれないが,それは事象発生の十分条件とはいえないだろう。そこで本報告では,事象の規範的評価からやや距離を置き,事象発生の文脈を包括的に明らかにすることを目的とする。つまり,ピーター・ドラッカーという人物とその著作が,日本においてどのように受容され,認識され,語られてきたかという,「ドラッカー観の系譜」を追跡するのである。そもそも,いつから「ドラッカーはすごい!」と言われるようになったのか。日本におけるドラッカーのイメージや論じられ方はどのように変わってきたのか。『もしドラ』は一体何が新しく,またそれ以前のドラッカー観の何を引き継いでいるのか――。これらを見ていくことで,近年のヒット/ブームが一体どのような社会的文脈のうえで起こっているのか,その条件およびそのような条件を形成する現代社会の状況について考察することが本報告のねらいである。
日本人はドラッカーに,経営学(論)者としてまず出会った。1950年代から1960年代にかけて,学術研究者はドラッカーの経営論を学術的に検討し始め,一方で実務家たちは早くもドラッカーを「経営の神様」として崇め奉っていた。ビジネスの領域では,ドラッカーの著作は早くも「一度はくぐらねばならない関門」「誰もが読まねばならない“古典”」として言及されるほどであった。これが1969年の『断絶の時代』以降,ドラッカーは時代診断者・未来予測者としての評価を確立していくことになる。するとその一方でドラッカーの経営論への注目は下火となってしまう。1974年に刊行された『マネジメント』は刊行当時ほぼ黙殺され,その書評を行った記事が一般誌においても学術誌においても皆無だったのである。
時代診断者としてのドラッカーのイメージは,その最晩年である2000年代に入って変容し始めることになる。ドラッカー自身が書き下ろした新著ではなく,自己実現やマネジメント等の企画に合わせたドラッカーの編訳書,その主張の入門・解説・図解書等がそれぞれ多く編まれるようになることで,ドラッカーの知見の「応用化」が始まるのである。2000年代は自己啓発書が多くベストセラーに上るようになった時期で,ドラッカーの応用の文脈は徐々にこの周辺に偏ってくることになる。ここで『マネジメント』がようやく脚光を浴びることになる。『もしドラ』はこうした応用化の潮流のなかで登場し,ドラッカーを応用することの「閾値」を引きずり落とす機能を果たしたと考えられる。つまり,ドラッカーをどのような分野にも,どのように論じてもよいのだという,「閾値」を下げる役割を果たしたのではないか,と。
現在におけるドラッカー(の知見)の使われ方は,概していえば「経営の神様」と呼ばれていた半世紀前と大きく変わることはない。いわば日本人は,ドラッカーという人物を通して常に真理を求め続けてきたのだと言える。そしてその切望の度合は,近年のドラッカー関連著作・雑誌記事の増加を単純に捉えるならば,ますます高まっているのではないかと考えられる。これだけ価値観が多様化し,各界における流動性が高まっているにもかかわらず――いや,それだからこそ――私たち日本人はドラッカーにますます「一なる真実」を求めるようになっているといえるのではないか。しかしその一方で,主観的なドラッカー解釈が称揚され,その学術的検証が無粋なこととされる近年のドラッカー言説は,際限なき,検証なきドラッカーの無限応用を育む温床になっているように思われる。というより,検証せずに称賛・応用を繰り返すことのできる「無限の資源」の生成こそが,このヒット/ブームの中核にあったといえるのかもしれない。
(文責:牧野智和)