「長谷川時雨と慰問雑誌」 押田信子 (2011年5月10日)

雑誌研究部会 発表要旨 (2011年5月10日)

長谷川時雨と慰問雑誌――『輝ク慰問文集』を中心にして

押田信子

 2011年度雑誌研究部会は,5月10日(火),東京電機大学・神田キャンパス7号館で行われた。今回の報告は「長谷川時雨と慰問雑誌」と題して押田信子氏に報告していただいた。東日本大震災後,初の雑誌研究部会であったが,慰問雑誌『戦線文庫』を発行・編集した日本出版社(戦前の興亜日本社)の現社長である矢崎寧夫氏も出席され,活発な意見交換がなされた。

 近代文学者であり,女性だけの文芸オピニオン雑誌『女人藝術』の発行者でもあった長谷川時雨(1879年~1941年)は,1939年~1940年にかけて,陸海軍資金援助,監修により,3冊の文集『輝ク部隊』『海の銃後』『海の勇士慰問文集』を制作した。これらの文集は長谷川時雨が率いた銃後慰問団体「輝ク部隊」に属していた,当時の多くの女性文壇人(林芙美子,佐多稲子,円地文子,宮本百合子ら)の作品で構成されている。長谷川時雨に関しては,すでに多数の研究がなされているが,長谷川が陸海軍恤兵部の出資による文集を制作した点までは明らかにされているものの,文集が別冊,または付録として付いた陸軍兵士向け慰問雑誌『陣中倶楽部』(大日本雄弁会講談社・編集)海軍兵士向け慰問雑誌『戰線文庫』(興亜日本社・発行,編集)については,内容の解明にまで至っていない。これは,現在両誌が国会図書館になく,合本が『陣中倶楽部』は講談社,『戰線文庫』は日本出版社にのみ所蔵するためと思われる。
 今回,『復刻 輝ク』と合わせ,『陣中倶楽部』,『戰線文庫』の原本を研究資料として使用することが可能となり,以下を調査し,報告した。
●『陣中倶楽部』『戰線文庫』誌面に掲載された長谷川時雨と「輝ク部隊」の1940年~1941年の活動
●戦時特有の出版物である,慰問雑誌『陣中倶楽部』『戰線文庫』の発行の背景,経緯,内容。
 報告は,まずプロローグとして,長谷川時雨をリーダーとする女性作家,女性文化人の会「輝ク会」の機関紙『輝ク』が1937年日中戦争開始とともに,『皇軍慰問号』を発行し,銃後支援へと変容していった過程を紹介。1939年には陸海軍肝いりの慰問雑誌2誌に協力し,文集制作を行った点に着目し,そこから見えてきた,長谷川時雨という女性経営者による日中戦争時の出版活動を考察した。
 本報告の中心である慰問雑誌だが,『陣中倶楽部』は,1939年4月,大日本雄弁会講談社が陸軍恤兵部より委託を受け,戦地の兵士向けに発行。陸軍では,すでに1932年頃(正確には不明)に初の慰問雑誌『恤兵』を創刊していたが,さらに内容充実を図って講談社に編集を依頼したものである。長谷川時雨と「輝ク部隊」は1940年~1941年にかけて隔月誌面に登場し,慰問活動の様子が紹介された。一方,『戦線文庫』は,海軍恤兵係が文藝春秋の実質上の子会社である興亜日本社に制作を依頼し,発行されたものである。ここでの長谷川時雨らの誌面登場は,文藝春秋社主の菊池寛が考案した「座談会」頁が中心で,彼女たちの口を通して戦地慰問の様子が生生しく語られている。報告の最後に,「慰問雑誌」を媒介とした講談社,文藝春秋と女性作家,女性文化人との共生の実態分析結果を述べた。
(押田信子)