磯部敦(奈良女子大学)
出版史料としての紙型・紙型鉛版
紙型とは活字組版を特殊な厚紙で型取りしたもので、そこに鉛を流しこんで紙型鉛版を鋳造する。紙製だから軽く、薄いから場所もとらずに保存でき、必要におうじて複製をつくることができる。版が残るから財産となり、紙型市などで貸借売買されることになる。だから紙型は大切に扱わなければならない。紙型といえば上記のような説明が一般的であろうが、では明治前期はどうであったのだろうか。
明治期の、とりわけ活版印刷技術が展開していく明治前期において、出版史料として紙型や紙型鉛版を考察するというのはきわめて難しい。というのも、モノそれじたいが残存していないからだ。史料的限界以前の問題であるのだけれど、一方で、それらを使って作製された印刷物ならばたくさん残っている。ならば、そこから紙型の痕跡をたどり、紙型利用のありようを抽出すればよい。拙稿「紙型と異本」(『書物学』8号、2016年8月)では、東京と大阪で明治二十年前後に複数の版元から出版された『徳川十五代記』『明治太平記』『近世太平記』をとりあげ、紙型および紙型鉛版の異同状況を考察した。紙型・紙型鉛版が版元を越えて利用されることはなく自社印刷で完結する消費物であり、この時期において保存の意識は皆無であったこと、同一組版紙型を使用しながらも台割(折丁構成)が違うことから多くの紙型鉛版が作られていたこと、そして面付けではなく組版単位で紙型が作られていた可能性もあることなどを指摘した。
出版史料としての出版物
紙型や鉛版じたいが残っていないため、稲岡勝が嘆いていたように、「大本になっている技術がどうなのかということになってくると、何だかわからない」(「〈座談会〉出版史研究の現状と課題」、『日本出版史料』10、2005、p.65)。これはもう仕方のないことで、その探索をあきらめる必要はないけれども時間の多くをそれに費やすのは現実的ではない。しかしながら、先にも述べたように私たちの前には書物をはじめとする印刷物がある。かつて稲岡は、「金港堂「社史」の方法について」(『出版研究』12、1982.12)において次のように述べている。
会社の部内資料たる文書・記録と並んで一等史料といえるものは、出版社の顔とも言うべき刊行物それ自体である。その内容的側面もさることながら、出版物の奥付、紙質、印刷、製本、装釘など物的側面からは、様様のデータを得ることが出来、その変遷をただることにより一篇の出版史を構想することも可能であろう。(p.128)
いまから三十年以上も前の指摘であるが、自戒をこめていえば、現状、この指摘のどれほどが達成できているといえるだろうか。たとえば「四六判ボール表紙本」。明治二十年代あたりまでの出版物を扱うならばこの名称と無関係ではいられないのだけれど、明治の初めにおいては「西洋綴」「洋書仕立」などと呼称が一定していない。四六判という名称にしても、明治の中ごろには広告に見られるようになっているが、では誰がいつから使用しはじめ定着していったのかとなると返答につまってしまう。近世板本において書型が書物の格差を示していたことを念頭におくならば、上記のことはたんなる技術の問題にとどまらず、「書物の形態と内容との関係」「書物の形態と読者の関係」をも射程に含み込んだ問題として浮上してくるのである(木戸雄一「明治期「ボール表紙本」の誕生」、国文学研究資料館編『明治の出版文化』、臨川書店、2002、p.7)。
むろん、研究成果がないというのではない。思うのは、出版史料としての出版物という視点が意外と看過されがちなのではないか、という点なのである。稲岡は、先ほどの座談会で次のようにも発言している。
(出版史料というのは――磯部補足)なかったのではなくて、いろんな所に部分的に散在している。そのかたちは、書籍、新聞、雑誌などのメディアから、書簡・日記、法令、また関係者の記憶や回想、記念の写真等々、本当にさまざまですが、そういう一級史料をこまめに掘り起こしていくことがまず第一歩です。(p.66)
われわれ出版史研究者のなすべきことは、ここに言い尽くされている。あえてこれに付言するならば、史料は個別具体に基づきながらも多方面から議論してその有効性と限界を見さだめ、「共有可能な分析手法を確立し」(田島悠来「特別報告 出版史研究の手法を討議する:出版史研究における雑誌分析の課題と可能性(4)」、日本出版学会HP)、そして不断に検証していくことが必要だろう。学会という単位が意味を持つのは、この点においてである。
(おわり)