中川裕美(岐阜聖徳学園短期大学 非常勤講師)
出版研究における「読者」をめぐる方法と課題
前回に述べた、研究者によって過剰な意味付けがなされたBL読者の「読み」は、まさに和田敦彦が指摘する「抽象的な都合のよい不在の読者」論に他ならない。
では我々出版研究者は、この問題とどのように向き合うことが出来るのだろうか。筆者は拙論(注1)において、読者像の調査方法には、資料調査と、フィールド調査という二つのアプローチがあることを指摘した。
古い雑誌を対象とすれば、その読者や編集者に直接インタビューを試みることは当然困難または不可能である。記事の恣意性を十分踏まえ吟味した上で、という条件付きで、読者投稿欄から読者像に迫ることは可能であろう。また、回顧録や手記、日記などの二次的資料を活用することも重要である。これらは、いずれも「資料調査」である。
一方、現在刊行中の雑誌、終刊していても時代が新しい雑誌を対象にする場合には、読者、編集者、作家といった人々の「生の声」にも直接耳を傾けることができるのであり、記事内容や資料のみに頼るべきではないと考える。
例えば筆者は、明治時代に発行されていた『少年世界』(博文館)を取り上げ、そこに現れた「少女」像について分析を行ったことがある。その際、分析の結果明らかとなった結果に対して、「当時の少年雑誌は非常に限られた階層が読者層であったため、分析結果からだけでは当時の文化社会を論じることは難しいのではないか」という批判を受けた。ではどのような分析をするのが正しいのか、という点については別稿に譲るとして、筆者がここで問題にしたいのは、次の点である。
過去の出版物であれ、近年のものであれ、「実際の読者はどのような人々であり、その雑誌をどのように読んだのか」という点に多角的に取り組むべきではないのか。
そこで重要なのは、資料調査の分析と、読者や作家、編集者といった「生の声」とをどのように結びつけていくのか、という方法である。
具体的には、インタビュー調査やアンケート調査といった社会調査的な手法が有効である。これらの手法は、一見「ただ聞きとるだけ」「質問を並べて記入してもらうだけ」に見えるため、安易に行ってしまう場合も少なくない。自己反省的に述べれば、当時を知る編集者や作家の方々から貴重な話を聞き取らせていただきながら、その内容をうまく研究へと接続出来なかったこともある。そういった反省を踏まえ、膨大な研究蓄積がある社会学・人類学・地理学といった学問分野から、社会調査についての正しい手順や方法を学ぶことも、これからの出版研究者にとって必要なことではないだろうか。
「いま・ここ」の資料を取り扱っていながら、史料研究と変わらない研究手法をとり続ければ、雑誌研究、ひいては出版研究が「社会・文化に関わる調査研究」の一端を担っていくことは困難となる。記事内容の分析によって導き出された結論と、社会調査的手法によって得られた知見との比較・考察は、その研究が机上の空論とならないために必須の作業だと考えるのである。
また、文化論は固定的な視点からではその本質に迫ることは出来ない。例えば前川直哉は、従来の先行研究が取ってきた「女性は『なぜボーイズ・ラブを読むのか』」という問いの立て方ではなく、「女性がボーイズ・ラブを読むという行為が、何故これほど言挙げされるのか」という問いの立て方を提示している(注2)。このような、ある文化事象ついて、先行研究においてすでに「枠組み」が出来上がってしまっている場合においても、それまでの議論を踏まえた上でもう一度問いを立て直し検討する、という試みも極めて重要である。
あらゆる可能性を視野に入れながら、包括的な議論を行うことで、研究者の問う「何故そのコンテンツは生まれ、読者はそれによって何を得たのか」という命題に迫ることが出来ると考える。
(おわり)
補記
本稿連載中に、『メディア史研究 第39号』に長尾宗典による「史料としての雑誌―保存と活用のための論点整理―」(2016)が掲載された。この論稿では、雑誌の史料学を構築していくために必要な課題とは何か、という問題について、具体例を上げながら整理が試みられている。ここでは紹介に留めるが、史料としての雑誌を取り扱う際の注意点が簡潔にまとめられており、非常に重要な論稿である。
※次回より牧義之会員の連載が始まります。
注
(1)中川裕美,2015, 「雑誌研究の方法と課題」, 『現代社会研究科研究報告 11号』, p58, 愛知淑徳大学現代社会研究科
(2)前川直哉インタビュー,「日本社会と『男の絆』」,『京都大学新聞 2013.05.01』