評者 中西秀彦(会員、中西印刷株式会社)
日本語の活字印刷についての、詳細な通史である。従来日本語の印刷というと、木版による多彩な出版表現と幕末に突如出現する鉛活字印刷という2点でのみ語られることが多かったが、近年、16-17世紀のキリシタン版や嵯峨本などの研究が進んで、その2点間を埋める多彩な活字表現があることが一般にも知られてきた。著者、鈴木広光は活版化の過程を単に書き文字や木版製版を活字という表現に置き換えたものであるとはとらえない。そこにはReducirの論理が働くとする。
Reducirはスペイン語で「多い物を減らし、多様な物を統一し、混沌の状態を終わらせ規則に従わせる」(p10)ことを意味する。これがスペイン語由来なのは南米の多様な言語をまとめて支配しやすくするという植民地経営の要請から出ているからなのだが、活字化ということの本質を言い表している。書き文字はそれこそ書き手によってあらゆる表現が可能である。木版の製版も能書化が版下を作成する以上手書きの一種といえる。ことに日本語仮名表現に顕著であるように連綿体など手書きは多彩な表現がされてきたし、その書かれた文字はひとつとして同じものがないだろう。
活字はその成立上、ひとつの文字をまったく同じものに複製する。多彩な手書き表現はここでは失われざるをえない。それでは活字にするという経済的メリットも大量複製の要望も達成されないからだ。そのひとつの形式に収斂するということが、文字の工業化という以上の意味を活版に与える。Reducirである。
しかし、本書で追求されるのはそのReducirの過程に生ずるさまざまな試行錯誤である。たとえば、本書で詳しく検討される「嵯峨本」『伊勢物語』では仮名の連綿体が木活字(ひとつの母型から大量に生産されるのではなく一字一字製作する。)で表現されているが、デジタル画像による詳細な検討により、三倍格に2字をつめた字や二倍格に1字を表現した例があきらかになる。これは企画の寸法内に文字表現をおさめようとするReducirの論理と仮名文字の自由な連綿表現の妥協点をみいだしたためではないかと著書は推測する。また異本ごとに微妙に活字が変更されているなど、むしろ同一本の大量複製であることにあらがって工芸品であろうとしているのではないかと推測している。いずれにしても、仮名文字の活字表現については長く日本語表現で試行錯誤が繰り返されるのである。
本書は3部校正からなり、1部は上記仮名文字表現を中心とした古活字版・キリシタン版の検討であり、2部は漢字活字の成立についてのキリスト教ミッションの関わりである。これを読むと本木昌造からはじまったように思われている漢字活字は18世紀から連綿と続くキリスト教のアジア布教と密接な関係があり、そこには幾多の宗教的情熱に導かれたミッションナリストの二百年に及ぶ努力のたまものと言うことがわかる。ラテン文字や印度系文字には慣れていたミッショナリストも膨大な量と複雑な形をもった漢字を鋳造活字化することにいかに苦心したが書かれていくのである。彼らの到達点の一つが部首ごとにバラバラに父型を作る分合活字で有り、そこにReducirの論理をやはり見るのだ。そしてようやく使える漢字活字が上海に集結したのはもう19世紀の半ばで有り、それはまさしく日本の活字革命前夜だったことがわかる。日本の漢字活字はこうしたキリスト教ミッションの蓄積に成立していたことが明らかにされる。
そして3部は明治以後の明朝体、特に仮名の成立に費やされる。明治のはじめ、仮名はやはり嵯峨本のような連綿体を基準とした書体で作られるが、それを明朝体活字と組み合わした時違和感は否めない。本書ではそれぞれの試みを紹介しながら、最終的に明朝体と「しっくり」合う。仮名活字に落ち着いていく過程を見る。それはやはり多様な表現を可能とした日本語の手書き表現が大量生産を前提とする書籍文化を形成するときReducirが生じたことを意味している。しかし、多様性と一般性は背反であって、筆者曰く「印刷によってテクストが不特定多数の読者を得ると言うことは、そのテクストがとじられた文化圏から離脱することを意味する」(p276)のだ。
本書は日本語活字の成立を細かな観察と分析で活写するが、技法や書体などの枝葉末節にこだわることなく、Reducirというキーワードを中心として、大きな流れの中で捉えて見せた。おそらく、今後の日本語活字あるいは日本語表現にとっての基本書として長く読まれ続けることになると思われる。
※本書評は2015年6月26日開催の2015年度第2回(通算第89回)関西部会「書字の論理/活字の論理」で配布されたものです。
鈴木広光『日本語活字印刷史』(名古屋大学出版会、2015年)ISBN978-4-8158-0795-5 5800円+税