発表要旨(2012年10月29日)
近代広告の誕生――雑誌『広告界』が果たした役割
竹内幸絵
(大阪市立大学・関西学院大学非常勤講師)
本報告は,昨年出版した拙書『近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃』(青土社)の執筆に際して重要な史料とした雑誌,『広告界』にスポットをあて,「広告」が黎明期にあった社会における雑誌メディア,読者と雑誌メディアとの関係性について考察したものである。
月刊誌『広告界』は1926年に創刊した戦前唯一の広告業界誌である。出版元の誠文堂は1921年(注1)から発刊していた『商店界』での広告制作指導記事への反響が大きかったことから,広告を切り離した別雑誌を構想した(注2)。この創刊の動機は当時の「広告」に対する社会認識の進展を示している。1920年代半ば,ようやく商店という地域商業の最小単位で広告の必要性が認知され,情報提供が要請されるまでになったのである。
創刊直後の1年間,同誌は広告制作者団体「商業美術家協会」との協力関係にあったが,2年目以降編集長となった室田庫造は協会との関係を保ちつつも距離をおき,独自の方針を打ち出す。学者や企業実務者などに執筆者を広げ,姉妹紙『商店界』所属の編集者も『広告界』に参画させた。こうして同誌は美的価値に傾いた芸術誌ではなく,商業への直接的な効果を重要視した,実践的な広告手法の提示・教育を中心とした研究誌となっていった。これが読者層を広げ発刊継続の力となった。雑誌『広告界』の成功そのものが1920年代後半,拡大する広告業界の情勢を示している。
室田の手腕でバラエティに富んだ雑誌となった『広告界』。全盛期の『広告界』が果した役割はなんだったのだろうか。
同誌には海外の最先端動向が多く紹介されたが,それらは先駆者が新理論の受容をアピールするためではなく,あくまで実作の参考とするための記事だった。編集・執筆陣は欧米の尖端動向を考慮しつつ,日本の現場での実践に役立つ試みを苦心した。街の制作者は毎号掲載された海外を含む最新事例の紹介写真や記事,読者がそのまま制作に利用できる広告素材サンプルを見ながら,一般大衆が日々眼にする小さなビジュアル広告を制作していった。この連鎖に思いを馳せたとき,同誌の役割が見えてくる。欧米の先端動向を咀嚼し,街の広告制作者に伝えた『広告界』は,彼らを媒介者として新しい傾向を拡大し,ひいては大衆の美意識を形成していく情報源として重要な意味を持ったのだ。
尖端的な先頭集団らの理解だけでは社会は変化しない。雑誌『広告界』は,商業と美術の両義を持つ社会的存在である「広告」の進路を方向付け,活性化を牽引した。この雑誌が次々と変りゆくデザインの新傾向のバトンを街の制作者に仲介したことで,新たな美意識が「広告」に使われ,社会に育ったのである。
また,同誌がジャンルをまたぐ人々の領域を超えた議論の場として機能したことも認知しておきたい。『広告界』には実務図案家以外に写真家,慶応大学や神戸商大,山口高商など研究機関の教授陣,萬年社や正露喜社といった広告代理店部長,百貨店や消費財メーカーの広告部部長,さらに街の商店で広告制作を行う一般人など実に多彩な人物が記事を執筆している。彼らはまだ新しい社会装置であった「広告」の未来を確信し,その地位向上と活性化のために,誌上で広告の意義や効果について意見交換し,実験的な広告スタイルの是非を論じた。今ほどの規模をまだ持たない小さな広告業界において,ひとつの雑誌が実験場所であり,現場で実践に携わっていた人たちへの情報源ともなった。これが今日の「広告業界」の礎を築き,「広告」が,大衆のものとして社会的な立場を確立する力となったのだ。
1941年に廃刊となる直前の2-3年間,戦時期に入り商業広告の需要が激減するなかで,同誌には,広告(アドバタイジング)が宣伝(プロパガンダ)にすり替わっていった状況が鮮明に映されている。そのとき広告制作者は何を模索しどう行動したのか。『広告界』は戦争という時代が広告の何を衰退させ,何を助長したのかをたどる資料として興味深い。ここに残る現場の葛藤と,表現の変化の詳細な分析は重要だが,今回の報告ではこれをとりあげることが出来なかった。筆者の今後の課題としてここに記しておきたい。
注
(1) 1920年(大正9年)12月発行。(なお誠文堂新光社ホームページでは『商店界』創刊は1922年,『広告界』は1925年とされている。)
(2) 商店界創業者社長小川菊松は「生来の広告好き」であり,この影響力も発刊の動機だという。前掲,渋谷重光編,宮山峻「雑誌編集者の実態」167頁。
(文責:竹内幸絵)