〈絶え間なき交信〉と物語の空間  岡田朋之 (2005年4月22日)

 関西部会   発表要旨 (2005年4月22日)

〈絶え間なき交信〉と物語の空間

 岡田朋之氏は第1に,「ケータイ電子出版」についてはたして有望なのかと講演を切り出した。岡田氏としては端末としての可能性だけではなく,メディア環境としてのケータイをメディア変容の中で考えたいという。
 携帯電話のインターネットサービスはアプリケーションをダウンロードするという形をとっているが,次期世代機のFOMAに「Adobe Reader LE」が搭載され,電子出版の媒体として標準化が図られる。またauのプレスリリースのページでは,EZWebから書籍の販売サイトにリンクする。「EZ Book Land!」というメニューから開いていき,ランキングとか,サンプルとか読めるのである。これは丸善と小学館が提携している。auの大容量高速通信だけに対応している。支払いも携帯料金から引き落とされる。
 2004年3月時点での国内の電子書籍の市場規模は約18億円といわれている。コンテンツの充実度では「新潮ケータイ文庫」が有名で,本を読む習慣の無かった人が小説を読むようになったと言われている。しかし,もてはやされて会員数が相当数とか急増とか言うわりに数字が明らかになっていない。読者にとっても電子化されるメリットはあるのか。印刷会社にとっても出版社にとってもコストが安いと言っても売り上げが見込めないのではどうしようもない。端末で読むことの意味がどれくらいあるのか。ケータイで読むにしても高速化していくことによって新しいサービスのあり方がどうなるのか。
 第2に,インタラクティブ文学の可能性と限界はどうなのか。デジタルであることの特徴を最大限生かせるのはハイパーテキストである。ハイパーテキストはあるいくつかの場所にリンクを張ることによって始まりも終わりもなく読めるテキストとして登場してきた。パソコンで読むコンテンツとして作られてきている。しかし,読み物としてどうなのか。テッド・ネルソンが考えたのが70年代。もう30-40年の歴史があるが,小説として出ているのは多くないどころか井上夢人の『99人の最終電車』くらいしかないのではないか。この作品ではまず舞台を地下鉄の最終電車として設定している。それは窓の外が見えないことと,登場人物が比較的少なくできるところから,物語の場としての必然性があったように思える。
 井上俊は〈物語〉の意味について次のようにいっている。「人生の経験は物語で構成されているがゆえに,経験の語りは物語に依拠せざるを得ない。そこで語られる物語は,他者の確認や批准を受けることで,社会的な効力を得る」(井上俊,1996「物語としての人生」『岩波講座・現代社会学9「ライフコースの社会学」』岩波書店)
 人間の生活を支えるのは物語であり,それを誰かが了解することによって,社会性を帯びる。99人のキャラクターすべてが,承認をもとめて自己主張している。神の手としての作者が特権的な統一をはからなければならないが,あからさまにやってしまうとハイパーテキストの趣旨に反する。それを地下鉄の車内という公共空間で展開することによって,作品が成り立っているのである。井上がいうところの「関与と不関与,抑制と共同の微妙なバランスの上に成り立つ文化」(井上俊,1992「ストレンジャーの文化」『悪夢の選択―文明の社会学』筑摩書房)である。
 第3に,ケータイ・コミュニケーションのマルチメディア的な特性およびその実態とは何か。携帯電話をなぜ「ケータイ」とカタカナ書きするかというと,携帯電話の使われ方が電話ではなく,インターネット端末として使われているからである。そこでの3大機能はケータイメール,着メロ,待ち受け画面・写メールであり,「絶え間なき交信(Perpetual Contact)」=「常時接続」が特徴となっている。
 第4に,ネット空間が見知らぬ他者を結びつける物語として,例えば「ユー・ガット・メール」や「with Love」などがあり,親密な空間ができている。常に友人などに語り続けることによって承認や認証をしていく。作られた物語を受け入れていく環境がどこまで可能なのだろうか,というようなことを以前,「デジタル・メディアの中の文学」という論文に書いた。
 第5に,「99人の最終電車」から「電車男」へと話を展開したい。「電車男」は2ちゃんねるの掲示板(スレッド)のチャットが小説になったものである。もともとカップルの成立した話を聞いて自虐的に欝に浸っていくという話で,「男達が後ろから撃たれるスレ」の中の電車の話が「電車男」であった。22歳,年収300-400万円,秋葉原的おたく。その彼が自分の体験談として,書いていく。掲示板の参加者は男を応援する。「電話だ!電話をしる(しろ)」といった調子。
 結論としては,サイトで見たから本を買う必要はない,と少なからぬ学生は言う。しかし,大半の若者はサイトで見ることまでしていないので,紙媒体が売れる環境があったのだといえる。またアメリカではブログがジャーナリズムになるのに対して,日本のブログは個人的な傾向のものが多い。日本的というか,私小説のように「私」ブログになっている。これが出版の中でどうなっていくのか。
 このあと活発な質疑応答があり,さらに懇親会場でもブログ文学の話など話題は尽きることがなかった。
(文責・湯浅俊彦)