『平凡』の時代――1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち  阪本博志 (2005年3月8日)

 関西部会   発表要旨 (2005年3月8日)

『平凡』の時代――1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち

 報告者は,戦後昭和を代表する大衆娯楽雑誌『平凡』について,誌面調査ならびに「送り手」「受け手」双方へのインタビュー調査を続けてきた。今回の報告は,これらの過程で得た,雑誌の現物や記事・オーラルヒストリー・生活記録など多様な資料を駆使し,「『平凡』の時代」たる1950年代の再構成を試みたものである。その際,今回はとくに誌面と「受け手」に重点を置いた。以下,その概略を紹介する。
 28年11月に『キング』の対抗誌として平凡社から創刊され5号で休刊した『平凡』の登録権は,45年9月同社創業者下中弥三郎から岩堀喜之助に譲り渡された。10月岩堀は清水達夫ら4名を集め合資会社凡人社(現・株式会社マガジンハウス)を創立。11月にA5判の文芸娯楽雑誌として『平凡』12月号を刊行した。48年同誌はB5判の大衆娯楽雑誌にリニューアルを遂げ,グラビア・連載小説を2本の柱とし,それぞれが(流行歌を伝える)ラジオ・映画と立体的にかつ複雑に結びついた編集がなされるようになった。また読者がラジオ・映画の世界とつながっていく読者参加企画が多数展開され,さらにはテレビという新しいメディアとの連動も図られた。
 こうして『平凡』は,50年代前半飛躍的に部数を伸ばし,発行部数140万部に至った。毎日新聞社「読書世論調査」の「いつも読む月刊雑誌」において『平凡』は,53年から59年にかけて2位である。かつ同誌は高い回読率を誇っていた。50年代は『平凡』の時代だったと言えよう。
 この躍進とともに,「送り手」の集団である版元凡人社も急成長を遂げている。56年には現在の場所に社屋を購入・移転,57年には社員数100名になり,59年には『週刊平凡』創刊に至った。「送り手」研究に関して今回は,調査で得た知見の一部を紹介するにとどめた。
 一方,「受け手」研究として今回は,読者組織「平凡友の会」を取り上げた。投書欄「平凡友の会」欄から生まれた同会は,50年代前半に萌芽期を,50年代後半に最盛期を,60年代前半に衰退期を迎えた。会員数は10万人以上を数え,全国各地さらにはブラジル等海外においても活発な活動が展開されていた。報告では,同会に集っていた若者たちの姿を明らかにし,会の全貌に迫った。
 以上概観した「送り手」誌面「受け手」を戦後史に位置づけることで,エリート中心ではない「もうひとつの戦後社会論」を目指すことを今後の課題とし,報告を終えた。
 続く質疑応答では,誌面の内容・「友の会」の活動・戦後若者文化史の把握・オーラルヒストリーを用いる際の方法論等の多岐に渡る質問ばかりか,参加者たち自身がかつて経験した生活文化にまつわるオーラルヒストリーも寄せられた。部会終了後場を移した懇親会の席上においても議論が続いた。
(阪本博志)