1931-1941年『主婦之友』における服装記事について  石田あゆう (2002年7月12日)

関西部会   発表要旨 (2002年7月12日)

1931-1941年『主婦之友』における服装記事について―「多色刷り口絵」を中心に―

石田あゆう

 一九三一年から一九四五年までの「戦時下」におけるファッションといえば,一般に「モンペ」や,愛国婦人会等の制服ともいうべき「割烹着」が想起される.しかし,当時の代表的「実用」婦人雑誌『主婦之友』(一九一七年創刊,現在の『主婦の友』の前身)をみると,戦時期には一見不釣合いな「流行」の衣装案内を多数みることができる.「ぜいたくは敵だ」や「欲しがりません,勝つまでは」といった消費を抑制する戦時スローガンのイメージからすれば,「実用」からはほど遠い「流行衣装」の案内記事は一見奇妙なものである.
 戦時下の女性役割を可視化するうえで大きな影響力をもったとされる『主婦之友』は「主婦」の実用雑誌であり,戦時下の軍国の「母」を「宣伝」する雑誌メディアとして取り上げられることが多い.そのため,若い女性のための衣装案内に力をいれていた側面が注目されることは少なかった.だが,『主婦之友』にとって十五年戦争時代とは,衣装案内を「広告」として掲載するメディアとしてより雑誌が大きく発展した時期でもあった.
 とくに多数の広告を掲載していた『主婦之友』は,「見る」雑誌としての誌面作りをおこなっており,巻頭の色刷り口絵における「衣装」は,若い女優をモデルとして起用し,人気デザイナーや各百貨店や商店によって推奨されている.戦時下でありながら,そうした口絵の華やかさは見るものをひきつける.
 満州事変から終戦までの「十五年戦争」期に『主婦之友』に掲載された衣装案内のひとつを挙げてみれば,次のようなものである.
 一九三一年七月号の「画報 流行と経済の夏衣装」には,日活や松竹の女優がマネキンとなり,「着物 白鳥縮緬の緑色訪問服,帯 白地絽片側物 スペイン模様の一揃いで着物(反値七十九圓)帯(片側十七八圓)京橋高島屋」や「アフタヌーンドレス 廿二圓で一揃いの軽装.富士畝ドレス(八圓五十銭)シミーズ(五十銭)スリップ,靴下(各一圓五十銭)帽子(三圓)靴(七圓)の破格値段で好評のもの 銀座松屋」を身にまとって登場している.
 この多色刷り口絵は,女優のグラビア写真であるとともに,百貨店広告でもあり,衣装の流行(モード)案内でもあった.こうしたページは広告としての機能を果たしながら,『主婦之友』を彩る「本文」として読者に読むことを可能にしていた.
 一九四〇年代には華やかな流行衣装は姿を消すが,それでも「更生服」=洋服の作り方を女性モデルを使って色刷りで頻繁に紹介する誌面となっている.
 そこに登場する女性は,「軍国の母」とは異なっており,当然ながらそれは「実用」雑誌を重宝する「主婦」でもない.明治から続く「良妻賢母」が影をおとす「主婦」や「軍国の母」イメージには,どちらにも,国家的要請にもとづく女性像としての連続性が見られる.しかし,にこやかに微笑む女性たちによる「モード」としての衣装案内は,商品広告として戦後の消費イメージを先取りしていた.
(石田あゆう)