関西部会 発表要旨 (2009年3月2日)
読書端末はなぜ普及しないのか?
読書端末は「新発売で話題となった機種がいつのまにか販売中止になっていた」というパターンが続いている。1990年に発売された第一号「電子ブックリーダー」こそ10年間続いたが,リブリエ,Σブックなどはどれも短命だった。新機種登場のたびに,「旧端末の欠点は克服された」と新機種に期待する論評が現われ,機運は盛り上がる。にもかかわらず,なぜいつも期待は裏切られるのか。
こうした評論は,端末が普及しない理由を二つあげている。「紙に似た高精細の電子ペーパーが実現できていないから読みづらい」という技術的不備を指摘する立場と,「利用者がなじんでいないだけ。デジタル世代が社会の中枢を占めるようになれば受け入れられる」と,社会の側に求める立場である。
ただ前者は誤っている。精細度の低い電子辞書が,読書端末の前から普及しているからだ。一方,後者の「不慣れ論」はその妥当性を現時点で検証する術がない。判断は保留せざるを得ない。
なぜ電子辞書は普及するのに読書端末は普及しないのか。画面の精細度でないとすればどこが違うのか。「読みの質が違う」という仮説を立ててみた。つまり辞書の読みは,探す意味が見つかれば終わる読みである。また辞書は一読で分かる直解型の文で書かれている。これに対して一般的な読書は,通読することではじめて意味を持つ読みであり,文章も論理的に複雑で一読では理解できない傾向にある。前者の「直解型文章を検索的に読む読み」はデジタル化と相性がよく,電子辞書となった。だが後者の「解読型文章を通読する読み」は,デジタル化になじまなかったという見立てである。
この仮説によれば,端末が人々から拒まれる事情も分かる。たとえば,授業で読書端末版と書籍版の教科書を使い,実証的に比較して両者に差があることを示した植村八潮氏らの報告も納得できる。私自身も電子書籍コンソーシアムのモニターとして参加し,使いづらさに苦しんだ経験も腑に落ちる。
なぜ読書端末は社会に受け入れられないのか。ひとことでいえば,「解読型の文章を通読する」という「読書のコア部分」をデジタルで代替することに無理があるからであろう。書籍という存在は当たり前すぎるためその働きについて意識されることは少ないが,デジタル化で代替できるのはごく一部に過ぎない。「書籍とは」「紙とは」「読みとは」という論議を踏まえて,書籍とデジタルの棲み分けを探る必要がある。
(筑瀬重喜)