■歴史部会 発表報告(2009年11月19日)
「森田草平『輪廻』における検閲
――伏字とページ差し替えをめぐって」
牧 義之
日本の明治期から戦前・戦中期にかけて行われた内務省による検閲は,その柱が「安寧秩序紊乱」と「風俗壊乱」の二つであり,軍部に関する記述や,当時の政治的事件に関する記事,また文学作品ではプロレタリア文学と,作品中の性的な描写が主に取り締まられていた。内務省の検閲に関しては,近年では資料整備によりその検閲の実態が徐々に明らかになってきた。発表者もそのような研究・調査を行うものである。
検閲に関わる問題―何が言え,何が言えなかったか―を考える場合に,一つ重要な事項として,被差別部落を指す用語の問題がある。「当時,新参の編集部員は,よく古参から,「革命」という二字と,未解放部落人を極端に侮蔑したある俗称の二字は禁句として,文句なしに○○または××の伏字にすべきことを注意された」(「禁じられたことば」『言語生活』昭和38年5月)という畑中繁雄の言葉にある通り,編集者の側が用語の使い方に非常に気を遣った問題である。それは,検閲する当局が下す「発売頒布禁止」という処分に対する危険回避もさることながら,部落問題解決のための諸団体からの抗議を避けるためのものでもあった。
被差別部落問題を扱った文学作品は,その取り扱い方は様々であるが,主なものとしては,島崎藤村「破戒」(明治38年),森田草平「輪廻」(大正15年),野間宏「青年の環」(昭和22年),住井すゑ「橋のない川」(昭和36年)等が挙げられるだろう。
本発表では,森田草平「輪廻」をとり上げて,その検閲に関する周辺事情を含めた問題について考察する。雑誌『女性』に発表され,後に新潮社から単行本化された本作品は,自身にハンセン氏病の疑いを持つ主人公を中心として,岐阜県の被差別部落が描かれると同時に,主人公と女性との性的場面が描かれることにより,当局側の照準で言うところの「安寧秩序紊乱」と「風俗壊乱」の両方に引っ掛かる危険性を持つことになり,複層的な意味で問題が多い作品である。
発禁に関する各年表を見ると,単行本『輪廻』は発行後間もなく発禁処分になっている。しかし,当時の新聞・雑誌の広告を見ると,発行元である新潮社は,禁止処分では無いとする文言が見られる。禁止処分に関する具体的な当局側の資料は残されていないが,実際に『輪廻』を点検すると,流通された本文に幾つかの差異が見られる。それは伏字の語句の違いであり,本発表では,各版の異同を調査することで,編集者側の,あるいは作者・森田草平による改変を明らかにする。また,同時代に問題にされた高橋貞樹『特殊部落一千年史』や菊池寛「特殊部落の夜」(『菊池寛戯曲全集』第一巻所収)の検閲原本を参照することで,当局側が被差別部落問題に対して,何を取り締まろうとしたのかを検討することで,『輪廻』発表当時の被差別部落に関する用語使用の実態について分析を行う。
なお,本発表中に当時被差別部落に対して使われた卑称を,発表資料や口頭で言及することがあるが,これは当時の使用言語の実態について研究を行うゆえであり,発表者は差別を助長するような意図は全く無いことを明確にしておく。被差別部落問題は過去の出来事として無関心であってはならないし,文学研究,そしてメディア研究の側からも,問題解決に向けて積極的な言及がなされるべきであると信じるものである。
(文責:牧 義之)