歴史部会 発表要旨 (2006年2月25日)
平田篤胤の著述と出版
吉田麻子
戦後の平田篤胤研究は,皇国史観的篤胤像を払拭しようという努力から始まったと言ってよいが,実際は,限られた史料とテキストにより,非合理的・排外的な篤胤像を打破できない状況に停滞していた。また「国学の四大人」という国文学史上の流れから,平田学を宣長学の俗化されたものとする低い位置づけはいまだ存在しつづけていた。
発表者は,平田家に代々伝わる膨大な平田篤胤および気吹舎塾関連の,新史料の整理にたずさわってきた。それらの資料群は2004年に国立歴史民俗博物館に移行され,平田篤胤研究は新たな再評価の側面をむかえることとなった。本発表は,これらの史料を中心に,主に篤胤没後の著書出版やその広がりについて検討したものである。
平田篤胤の著作物は,篤胤没後,幕末から明治にかけて盛んに出版され流布されることとなる。その刊行数や販売部数は生前とは比較にならないほどである。よって,その販売方法や出版資金調達方法も,生前と没後では明らかに異なってくる。一方,特に幕末期において,その著述のもつ性格上,常に政治的な弾圧に対する配慮をしていなければならなかった。著作物の中にはある時期写本でのみ流布させていたものがあり,時期をみて刊行されたものもある。また,国学運動を志す門人達にとっては,篤胤の著作を出版し売り広めること自体が「道を弘める」ことそのものなのであった。門人の中には自ら書籍売り弘め所となることを希望する者も現れ,いわば宣教師的な役割をも担っていた。さらに気吹舎側が幕府を意識し刊行を見合わせていた書を,「木活字」という形で違法に出版する者も表れてくる。これは,篤胤の思想を世に広めるべきだとする勤王の志士の場合もあれば,利益を見込んだ書肆が勝手に出版するというケースもあった。
このように幕末から明治という時代背景の中で,気吹舎の著述は「流布させること」と「秘めること」の間を漂わざるを得なかった側面をもっていたのである。
(吉田麻子)