歴史部会 発表要旨 (2004年12月3日)
「版権条例」「版権法」における雑誌の版権――諸家の説に疑義を呈す
浅岡邦雄
明治20年12月に公布された「版権条例」において,それまで明定されていなかった雑誌の版権が,一部ではあるが保護の対象として認められることとなり,6年後に改正された「版権法」では,その保護の対象がさらに拡大された。
これまで,この両法令における雑誌の版権に関する言説はきわめて少なく,それのみかその少ない著作権法等の専門家による言説には少なからず疑問点が存在するので,本報告では,「版権条例」「版権法」における関係法文の解釈,法令の運用,当時の出版的背景,雑誌発行者側の対応等につき解説し,専門家による記述の誤謬を具体的に指摘した。
20年「版権条例」と同日改正公布された「出版条例」では,それまで「新聞紙条例」によって刊行されていた新聞・雑誌のうち,「学術技芸に関する事項を記載する」(第2条但書き)雑誌は許可を受けて出版条例により刊行が可能となり,したがって「版権条例」第2条により版権の保護が得られるようになった。さらに,同条例第15条では,版権保護の得られない新聞および雑誌(政治・時事を論じるもの)においても,小説(1号限りでも)と2号以上連載の論説記事を許諾を得ずに2年以内に図書として刊行することは不可とされた。版権の保護を得られる雑誌は,発行毎の版権登録の手続きが省略できることから(第11条),学術雑誌等は半年あるいは1年分まとめて版権登録することができた。
明治26年の「版権法」ではさらに保護の対象が拡張され,政治時事を論じる雑誌(新聞は不可)も版権を得ることが可能になるとともに,新聞掲載の小説ならびに2号以上にわたる新聞の論説でも,〈禁転載〉と表示すれば,承諾を得ずに新聞・雑誌へ転載するか,あるいは書籍として刊行することはできなくなった(第15条)。
こうした法令の整備がなされる以前は,博文館の『日本大家論集』に代表される無断転載による雑誌,図書が多く刊行されたが,それらは道義的問題を別にすれば,特に違法行為には当たらなかった。そうした例としては,国友館,興民社などによる『国民之友』合本(民友社による合本図書の無断転載)や雑誌『知識之戦場』の無断転載等がある。
さらに,明治20年代における雑誌の版権について論述する数少ない論考から4点の論考をとりあげ,「版権条例」「版権法」の解釈や出版史的誤り等を指摘した。これら論考に共通の欠陥は,法文を解釈することにのみ専心して,当時当該法令がどのように運用されていたのか,雑誌発行者側が法令にいかに対応したかについての検証作業がまったく欠如していることにある。一例をあげれば,明治24年2月雑誌『教育報知』は,東京地方裁判所から版権条例違反として20円の罰金を言い渡されるが,これは版権所有の雑誌『学林』第10号に掲載された「ヘルバルト先生小伝」なる論考を『教育報知』が無断で転載したことにより提訴されたもので,版権条例第1条および同第27条違反として処罰されたものである。これによっても,版権を取得した雑誌に掲載された論説1本であっても無断転載すれば,「版権条例」公布以後は,当該雑誌から提訴されれば処罰されるようになったのである。26年「版権法」以後は,その保護の対象がさらに拡張されたことは言うまでもない。
(浅岡邦雄)