歴史部会 発表要旨 (2004年3月12日)
江戸時代の出版業界における利権をめぐる争い
柏崎順子
江戸時代の出版業は板株と称する利権によって成り立っていた.板株とはいわゆる版権のことで,一度取得すると,他の出版業による重板・類板を禁じて,無制限に当該書の出版による経済的利益を独占することができた.そのため,出版の発祥地京都の出版業者が,古典など将来的に安定した販売を期待することができる書物の板株を多数所持して,強固な経営基盤を構築することに成功したのに対して,遅れて開業した江戸の出版業者は終始不利な経営を強いられることになった.とりわけ江戸の出版業者を悩ませたのは,類板の認定が板株所有者の恣意に委ねられていることであった.
寛延三年(1750)に江戸の書物問屋南組が仲間行事を相手取って起こした訴訟は,以上のような背景から,起こるべくして起こった上方資本系の出版業者と江戸資本系の出版業者との利権をめぐる抗争として,これまでにもたびたび論じられてきたのであるが,この訴訟の目的が版権侵害にあたらない「類書」と版権侵害にあたる「類板」とは区別されるべきであること,「類書」までも「類板」と認定してその出版を規制している出版業界の現状は是正されるべきであること,以上二点を訴えて,版権の及ぶ範囲について公儀が適切な判断を示すことを期待した点にあることを指摘して,その意義について論じられることはなかった.
しかし,南組の当初の主張,すなわち,元板に少し手を加えただけの重板に近い類板を版権侵害にあたる出版物と認定することに異論はないが,例えば,作者の創意工夫によって成った古典の注釈にその古典の本文を付して出版するのは,既にその古典の本文を出版している者の利益を損なうことになるという理由で,類板として出版を差し止めている現状は問題で,これでは「見識の書」の普及が妨げられるばかりでなく,ひいては政道を損なうことになるのではないかという主張は,板株所有者の権利を無制限に認めている現状に対して,出版の公共性という視点から,何らかの制限を加えるべきであるという考え方に立っての発言とすれば,議論が深まる過程で,今日いうところの著作権という考え方を醸成する可能性をはらんでいるだけに,再評価されてしかるべきかと考える.
惜しまれるのは,南組が訴訟対策に追われて途中から訴訟の本来の目的を見失ってしまったことである.町奉行が「見識の書」の普及が妨げられているという南組の陳述に強い関心を示したことから,その点に力点をおいた陳述をすることに方針を切りかえたことが敗訴の主因になるが,同時に南組はその時点で訴訟本来の目的を完全に見失ったようである.
(柏崎順子)