「専門書翻訳をアートする」北野収(2024年9月27日)

■ 翻訳出版研究部会 開催報告(2024年9月27日開催)

「専門書翻訳をアートする――翻訳のプロでない者にできること」
 報 告:北野 収(獨協大学教授)

 
 今回の部会では、国際開発論と食料農業問題をご専門とする北野収先生をお招きし、ご自身の経験から専門書翻訳についてお話しいただいた。
 北野氏によると、プロの翻訳家による翻訳と、特定分野の専門家である研究者による翻訳を比較したとき、概して日本語の質はプロ翻訳家のほうが優れているし、発売時期が売れ行きに直結するベストセラーなど、厳しい納期が課される場合にはプロ翻訳家に分があるが、専門書の場合には当初より研究者が訳者として起用される、または研究者による持ち込み企画のケースが多いという。
 日本の翻訳専門書市場の根底には、とりわけ人文社会科学系において、英語圏を中心とする世界の研究動向から乖離しがちという構造的問題の可能性を指摘できるという。世界各地で当たり前のこととして行われている国境や言語を超えた知の伝達普及が日本では必ずしも機能していないケースもあることを、北野氏は問題点として指摘された。翻訳専門書の日本における市場規模は極小の場合が多いが、なんとか商業ベースに乗るであろう翻訳出版企画でも、日本の特殊な嗜好性に基づいており、国際的な学術的価値とは連動しないことも少なくないというのである。その結果、その学術的価値から世界各地で翻訳版が出版されているにもかかわらず、日本では見向きもされない名著がでてくる。そのような専門書を日本の読者に届けるには、研究者による無償奉仕とも言える翻訳作業に依拠せざるを得ないのが現実だという。
 開発学分野の大著として知られるアルトゥーロ・エスコバルの『開発との遭遇:第三世界の発明と解体』(新評論、2022)がその良い例で、原著はその分野の古典でありながら、日本語版は存在していなかった。それは英語ネイティブでない著者の英語、章により扱う分野が異なり広範な知識を要するという二重の「難解さ」が原因であったが、北野氏は10年という長い年月を費やして、その大著の翻訳に取り組まれた。その際に「研究者=翻訳者」であることを生かした仕掛けをデザインしたという。すなわち、①原著者に日本語版序文を依頼する、②翻訳者解説を付ける、③膨大な数にのぼる専門用語補足説明、自身の研究や実体験に基づいた補足説明などを含む訳注を充実させる、④各章の扉頁に読解の手引きを設ける、といった付加価値をつけたのである。①には原著者からの日本への問いが含まれ、②にはそれに対する研究者としての返答が仕込まれている。これが、原書に忠実な「黒子」に徹するプロ翻訳者の翻訳とは一線を画す、北野氏のいう研究者によるアートとしての専門書翻訳である。このような仕掛けは、極小市場の裾野を少しでも広げるためのものでもある。
 たとえ市場規模が小さく、研究者としての業績にはならないというジレンマがあったとしても、専門書翻訳のニーズ(社会における知の輸血)に研究者は応えるべきだと北野氏は強調された。日本の専門書市場が英語圏のそれに比して極めて小さい、という根本的問題はあるものの、研究者は各自の持ち場で「知の輸血」に取り組んでほしい、と北野氏は真摯に訴えている。心血を注いだ翻訳作業の末に得られた北野氏のこの願いが、多くの研究者の耳に届くことを願ってやまない。
 
日 時:2024年9月27日(金)午後7時~午後8時30分
場 所:文京シビックホール3階 会議室2
参加者:22名(会員10人、非会員12人)

(文責:佐々木千恵)