■ 関西部会 発表要旨 (2005年7月25日)
書店人生50年――出版流通を考える
海地信
2005年7月期の関西部会は,海地信氏をお迎えし,「書店人生50年――出版流通を考える」というテーマでお話いただいた。会場は関西学院大学梅田キャンパスである。海地氏は,これまでの書店人生を次のように語った。
私がこの世界に入ってきたのが,1949年だからその前年に日配が解体したというときである。本屋の前にレコード屋に入った。30年か40年まで,堂島にフィガロというレコード屋があって,金へんのときは良かったが,その後景気が悪くなってやめてくれといわれた。それで入ったのが旭屋書店だった。
旭屋はスリップを自分で作っていた。スリップのない出版社に独自のスリップを入れて,スリップのない本は店に出さなかった。『会社四季報』とか雑誌にもスリップを入れ,「ぼうず」に色を付ける。6色くらいを半月くらいで,赤,青と変えていく。今月は赤のスリップの本を引き上げろと,返品する。旭屋の創業者は頭が良かった。スリップで情報を取得する。情報が必要と考えた。
その当時,旭屋は戦後開店の店だから日書連も取次も冷たかった。そこで現金で仕入れた。10日ごとの締めで支払っていた。
もう一つ,先見の明があった。大阪に入らない本を,東京に駐在員を置いて出版社からでも取次からでも現金仕入れをした。急ぎの分は客車便で送った。10キロか20キロの制限の重量制限があったが,貨車便は3,4日かかる。貨車便では常備の入れ替え分くらいにして,あとは客車便で送った。それを店に出すので大阪での販売が早かった。客車便が東京発で翌日に到着するのでほかの書店より有利に商売できる。
旭屋に入ったとき,仕入れの原則は,とにかく早く入れ,量を取ることだった。従業員はせいぜい中卒で,大学卒なんかいなかった。
仕入れというセクションは私が入ったころで4人,一般書,専門書,雑誌担当とか。私はそれのお手伝いをしていた。大阪駅に行って,荷物を取ってくる。昭和24,5年の頃で,個数が多いときで30個以上,少ないときでも20個はあった。それを手分けして仕入れの窓口で商品課が担当して検品する。そこで荷物を降ろしたら,自転車の後ろに竹かごを積んで,曽根崎の取次街に走る。曽根崎の三和銀行の西の方に20軒くらいの取次店に入って,担当の新刊を抜く。『ぶらり瓢箪』なんかは,1梱包を押さえてしまったものである。その頃から大阪での競争力はたいしたものだった。
スリップを分ける手伝いもしていた。有名出版社のもので動きのいいものは目玉クリップではさんで,白板に釘があって,そこにかけていく。朝倉書店のスリップがたくさんたまったから,封筒に入れて全部送ったことがある。責任者が見てから送る原則だったが,間に合わないと思った。あとで商品がいっぱい入って大失敗した。
旭屋書店と産経新聞は深い仲だった。産経新聞の役員をしていたので早嶋は戦後,公職追放されたのである。本屋の前には種苗,薬,化粧品を扱う商売をやりかけたらしいが,続かずにいちばんいいのが定価販売の本屋ということで,本屋を始めたらしい。
現在の大阪駅前のヒルトンホテルのところに本店があった。私が入ったころは50,60坪だった。場所を決める際には創業者の早嶋は腰弁で通い,人通りが多いからとそこに決めたそうだ。当初は4坪から始めた。闇市のあとだった。ほかに桜橋店と道頓堀店と3軒あった。道頓堀の中座横に道頓堀店を持っていた。本の売れ方が各店,特徴的だった。「平凡」という雑誌は本店では売れなくても道頓堀で1日に100冊とか売れる。
私の仕事は産経新聞のバック便という原稿を送る最優先の便があって,その「原稿便」の袋に書籍の注文票を入れて夕方送ると翌朝,9時には東京に着く。大阪で間に合わない調達はそうしていた。
「谷崎源氏」が出たときは1位が3万円とかの報奨金がついた。販売成績の上位は大阪のトッパンセールスと,万字屋と旭屋だった。東京の書店はだめだった。売れたら帯を抜いてそれが成績になった。ある書店は販売コンクール後に帯なしの返品をしたという。旭屋では締め切りの日が迫ると帯をはずして,あと何部売れるという目算をたてて売った。
大阪で2年弱いて,東京に転勤になり,集品の仕事をした。今でもそうだが,客注というのは最優先である。私は神田村,もう一人は本郷,銀座という具合に本を仕入れて回る。現金でもなんでも注文の商品はなんとしてでもとる。ときには利益の無いものも扱った。10掛だったが,旭屋は早いということで,読者の評判が良かった。銀座の歯車学会があった。また日本機械学会や日科技連など,客注が来る。10冊とか20冊とかの単位で注文がきて,東京の書店よりよく売ったと思う。学会ものは直接販売だった。学会に仕入れに行くと旭屋がよく買いに来るので驚いていた。それが出来たのは旭屋がスリップで管理していたからである。大阪で仕入れできないものは全部,東京に回していた。日本機械学会も日科技連も現金,といっても小切手をもたされて,支払った。入って間なしの私によく小切手を渡したと思う。
注文品を仕入れるということの副次的な効果というか,それが旭屋の発展に寄与したと思う。大阪にないような本が置いてあることが魅力だった。専門書が売れるので,仕入れよう,と。もちろん買い切りだが,思い切ってやらせてくれていた。それが旭屋の昭和20年代あたりの大きな力になっていたと思う。
私自身のいちばん大きな問題は学歴コンプレックスだったが,本を通じてサークルに入って,そのうちサークルを作り,学歴コンプレックスはだんだん抜けていった。「ロマン・ロランの会」というサークルから独立して,独自のサークルを持って,経済学に詳しい早稲田の学生に講義してもらったり,勉強会を開いたり。日立の人から労組の話を聞いたりした。
大阪に帰ってきて,本店を作ったときに,1階から3階までの担当になれと言われたとき,サークル時代の知識が役に立った。オープンした年の暮れくらいから,本店の売れ行きがよかったので,4階から6階の担当課長が日販に商品を抜きに行った。次に私が1階から3階の商品を抜きに行った。いい本のいい著者,という自分なりの考えで選んだ。法経関係は分からないから日販の人に抜いてもらった。人文書が当時,非常に売れた時代で,私の感覚と売れることが合った。当時は学生運動が盛んだったが,彼らは本をよく読んでいた。『南方熊楠全集』が平積みしてばんばん売れた。
1970年代の初めに紀伊国屋書店と旭屋書店が関が原の戦いをやったときから,大型店時代が来たと思った。大型店では専門出版社や中小出版社の本を置いた。これは画期的なことだった。しかし,ただ単に販売する,入れ物だけの書店になってしまった。
1970年代の思想が進展していけばまだまだ可能性があるが,それ以降の大型書店はさびしくなる一方である。私はなんでもかんでも機械というのはいやである。
以上の海地氏のお話を受けて,活発な質疑応答があり,その後は会場を移しての懇親会となった。なお部会の参加者は12名であった。
(文責・湯浅俊彦)