近代日本の少女雑誌における模範人物像の変遷 (2004年8月20日)

■ 関西部会   発表要旨 (2004年8月20日)

近代日本の少女雑誌における模範人物像の変遷

 本報告の目的は近代日本の女性の「成功」の意味を明らかにすることである。近代日本の少年雑誌が焚きつけた少年の「成功」は学問による職業達成であった。しかしながら,少女たちはほとんどが中等教育を終えて間もなく結婚し,家事や育児,または婚家の家業に専念していくことになった。しかし,結婚するしかなかったという実態と,少女たちが結婚を目指したということとは別問題である。はたして,少女たちの目指した「成功」とはどのようなものだったのだろうか。そのため,戦前の代表的な少女雑誌である『少女界』,『少女世界』,『少女の友』,『少女画報』,『少女倶楽部』に名前が掲載されている模範女性を抽出した。その結果,1900年前半から1913年頃まで,少女雑誌が掲載した模範女性は,皇族・華族の令嬢と女子教育家などのエリートであった。しかし,1914年頃になるとだんだん華族・皇族の令嬢の雑誌に占める割合が少なくなっていく。代わりに同年から芸術家がだんだん増えていき,1920年頃から芸術家,1930年頃から松竹・宝塚のスターが大量掲載されていく。つまり模範女性は属性主義から業績主義へと変化していくのである。したがって,少女の「成功」も,少年と同様,メリトクラシーの影響を受けていることがわかった。しかしながら,男子と同様の学歴を媒介とした「成功」ではない。芸術の道は,文化資本・経済資本・社会関係資本を大量に投入して獲得する「成功」である。したがって,近代日本の女性の「業績」とは,男性の「業績」よりも著しく「属性」と結びついたものであった。そうであるがゆえに,経済資本・文化資本・社会関係資本を持った女性は,それらによって性別による障碍を克服することが可能であったのである。これは,近代日本がジェンダー差だけでなく,階層差も明確に存在した社会であったためである。こう考えると,「業績」という概念自体がジェンダーに彩られたものであることがはっきり見えてくる。男性の学歴という見えやすい「業績」もしくは「成功」と違って,女性の芸術という「業績」は学歴という指標がないために見えにくく,なおかつ,いちじるしく属性と見分けがつきにくいものなのである。しかし,1937,38年以降の総力戦体制下になると,戦争に役立たないものはすべて否定され,劣ったものとしてみなされていく。したがって,芸術の世界,とりわけ宝塚少女歌劇の世界は無駄なもの,劣ったものとして排除されていくのである。つまりは,女性に,特に階層の高い女性に有利に機能していた芸術の世界が否定され,そのことによって,女性が階層によって性別を乗り越えることを不可能にしていくのであった。そして,その過程で,男性並みに働く運動家と,兵士を産む母親は尊重されていくものの,そのどちらでもないもの,つまり,男性でも母親でもない少女は否定され,劣ったものとしてみなされていくのであった。