第37回日本出版学会賞の審査は、「出版の調査・研究の領域」における著書および論文を対象に、「日本出版学会賞要綱」および「日本出版学会賞審査細則」に基づいて行われた。今回は2015年1月1日から同年12月31日までに刊行・発表された著作を対象に審査を行った。審査委員会は2月22日、3月14日の2回、開催された。審査は、出版学会会員からの自薦他薦の候補作と古山悟由会員が作成した出版関係の著作および論文のリストに基づいて行った。その結果、日本出版学会賞奨励賞1点を決定した。
【日本出版学会賞奨励賞】
大澤聡 著
『批評メディア論―戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)
[審査結果]
本書は、1920年代後半から30年代半ばの日本の論壇と文壇の形成を分析した研究書であり、批評に係る「形式」がいかにして成立したのかを明示したものである。総合雑誌の論壇時評・文芸時評などを分析対象としており、雑誌研究に新たな地平を開いたものとして評価できる。
これまでにも歴史的視座から日本の論壇を考察した研究はあったが、その多くは戦後を射程とするものであり、特定の雑誌や論者の群像を活写する内容であった。そうした先行研究と比して、本書の独自性はメディア環境を問題の中心に据えたことにある。つまり、言論を支えるインフラやシステムの生成過程に注目することで、戦前期日本に誕生した論壇や文壇の歴史的存立要件とその展開にアプローチしたのである。
具体的には、各章において、「論壇時評」「文芸時評」「座談会」「人物批評」「匿名批評」という5つのジャンルを題材に課題設定が組まれ、これらの分析を通して、言論の産出構造が即俗的な「心理」に拘束されていたことが明らかにされていく。こうした被拘束性は、本書の分析対象が戦前期日本であるのにもかかわらず、読み手に現代的な課題を想起させる。この点において、本書が研究書としてだけでなく、優れた批評性を有するテクストなのだと感じさせる。
総合雑誌に「論壇時評」という新しい形式が生まれ、いかなる言論のネットワークの様態が築かれていったのか。そうした中で、いかなる批評の形式が流行したのか。これらの問いがもたらす本書の画期的な視座は、出版の大衆化に適応する形で批評メディアが生成され、それらを意識しつつ言論が紡ぎ出されていた過程を明らかにしており、出版史研究における新生面を開いたといえるだろう。
以上の諸点から、本書が戦前期日本の出版に関する立派な学術的貢献であることは明らかであり、日本出版学会賞奨励賞にふさわしいものと判断した。
[受賞のことば]
大澤 聡
賞を賜りましたこと、大変光栄に思っております。心より御礼申し上げます。出版に関する学会ということもあり、自分の備忘録も兼ねて以下に執筆の経緯などを記しておきます(以前、『出版ニュース』の拙連載「アーカイブ」に記した内容と重複します)。
電子版も将来的には展開するかもしれませんが、それはあくまで副次的な利用であって、紙の「書籍」という形態で発表されることを強く念頭においてこの本は書き進められました。最終的に、四六判の上製、角背、総計360頁に落ちつきました。装幀はデザイナーと制作過程で何度も意見交換し、ご覧のかたちとなりました(お互いに得た知見もたくさんありますので何らかのかたちで報告できればと思っております)。巻末には参照文献を指示した大量の註や人名索引が付いています。こうしたパッケージの諸条件は、手に取る者に読む前から一定の予見を自動的に促すことになるはずです。他方で、人文書を読み慣れない者はこれを読書対象と見なさないかもしれません。たとえば、わたしの実家の父や母や妹や甥や姪のように。そして、未来の研究者たちも同様に読み方を把握していないかもしれない。そもそも何ゆえに存在するのかを理解しない可能性だってあります。本書には、たとえばこうした言論の「形式」面に焦点をあてた考察が詰め込まれています。
本文はパソコンのワープロソフトを使って執筆されました。それゆえに、無限の改稿を経ています。現在では、Evernoteなどのソフトを日々駆使して執筆に役立てる人もいますが、本書の制作プロセスはそこまでデジタル化されていません。せいぜい携帯電話――執筆途中からスマートフォンに代わった――に断片的な文章をメモしたり、旅先に携帯したノートパソコンやポメラで分散的に執筆したりといった程度。むしろ、大方の局面では、時代遅れといってよいほどにアナログな手法が採られています。
紙の手帳に日々のアイデアを書溜め、あとでそれを見返し、といっても、大半はそのまま見返さず死蔵させ、少しずつ前進しました。まとまった改稿のたびにプリントアウトしては通勤の電車内でせっせと赤入れをする。家に帰ってそれをデータに反映させる。推敲する。およそ七年間、ただただその繰返しでした。
準備段階には、書庫に引きこもって、雑誌や新聞をひたすら閲覧・複写・整理する基礎作業が介在している。制作のかなりの時間はそうした作業に費やされています。いまのところ、新聞はともかく雑誌類はデジタル化されていませんから、一冊一冊通覧する必要がありました。「あとがき」にも書いたとおり、わたしはそのために、最初の三つの夏休みと二つの冬休みを丸々潰しました。ほんとうに愚鈍なことです。
この種の網羅的なブラウジング作業はそう遠くない日、まちがいなく無効となるでしょう。アーカイブの完全デジタル化が実現するからです。そして、ウェブ上の資料群を漁る未来の研究者は本書の迂遠な作業を嘲笑うのだと思います。執筆環境の変化はぐんぐん加速しており、わたしたちはほんの少し前の環境についてほとんど想像できなくなっている。じっさい、古典作品の使用語彙をすべてカードに書き取り、コーパスを手作業で構築した研究者の苦悩をわたしたちは十分に理解しうるでしょうか。それどころか、CiNiiなりAmazonなりを知らなかった時期の自分自身の読書感覚を思い返すことすら困難なありさまです。
どのような作業を経て書かれたのか。それは本によって区々です。にもかかわらず、バリエーション少ないパッケージに一律格納され、同じ言語で書かれ、いずれアーカイブされていく。手に取る未来の人間はその書籍の来歴を想像してくれません。時代的な意義は不明のままでしょう。
特定の成果が産出された環境や条件を検討することも出版研究の大きな役割だと考えています。引き続き、こうした時代的な責務を実感しつつ研究に邁進してまいる所存です。