「戦時下の少女雑誌――芹沢光治良『けなげな娘達』を例に」中川裕美 (2015年12月 秋季研究発表会)

戦時下の少女雑誌――芹沢光治良『けなげな娘達』を例に

中川裕美
(愛知教育大学 非常勤)

 作家芹沢光治良には,戦前に出版された『けなげな娘達』と戦後に出版された『牧師館の少女』という,タイトルのみが異なり,内容はほぼ同一の作品がある。本発表はこの二作品の記述内容の分析を通して,戦時中の出版規制が作家・作品に及ぼした影響と,戦後の「民主化」のそれを考察するものである。
 『けなげな娘達』の初出は,『少女の友』(実業之日本社)に1942年1月号から12月号まで連載された。1943年に偕成社より単行本化された後,戦後には二度改題(『乙女の日』『牧師館の少女』)され,それぞれ単行本として発行された。さらに1954年に発行された『日本少年少女名作全集11』(河出書房)に,芹沢の代表的な少女小説四編のうちの一編として掲載された。本発表で分析に用いたのは,初出の『けなげな娘達』と,最後の版となった全集に掲載された『牧師館の少女』である。
 『けなげな娘達』と『牧師館の少女』では,基本的な設定や物語展開にはほとんど違いがないものの,表現が細かく加筆・修正されている。そこで以下では,『けなげな娘達』を元に,芹沢が『牧師館の少女』でどのように書き改めたのかを明らかにするため,二つの作品の違いを調べた結果を述べていく。
 まず修正の方法は単語,文節などの短い書き換えがなされている場合,段落単位で修正がなされている場合など様々であった。修正の傾向は,大きく三つであった。
 第一に,「家庭常会」を「家庭会議」,「お父さん」が「パパ」といったような,時代に即した表現に改められている場合であった。
 第二に,「マクドナルド先生」が「マリアンヌ先生」,「アメリカ」が「フランス」といったような,設定の変更による書き換えの場合である。
 第三に,最も重要なものとして,他国に対する否定的表現や,国家と市民の関係に関する記述の削除と書き換えである。
 例えば,「アメリカって,お父さんの話では日本人のやうな色のついた人を軽蔑しているさうですから,お父さんの船なんか,見つかり次第沈めてしまふわ。」といった台詞は削除されていた。また「ああ神様を知らない恐ろしい目だ,気の毒な支那だ」という台詞は,「ああ神様を知らないおそろしい国だ」と書き換えられていた。
 次に,国家と市民の関係に関する記述例は,次のようなものがあげられる。まず削除されていた例としては,「日本に産まれたありがたさよ。」「マクドナルド先生も,天皇陛下のありがたい思召が日本人のやうに身にしみる気持がした……」などであった。書き換え例としては,「一年も早くお国のご用に立つやうな人間になるためには」という台詞が,「一年も早く世の中のご用に立つような人間になるためには」となっていた。特に,こうした天皇や国家に対する忠君愛国の精神が描かれた箇所は,細かく表現が書き直され,場合によっては該当箇所が削除されていた。
 また,『けなげな娘達』に書き足す形で修正されている場合もあった。「ご主人が二度目のお召で出征して戦死したのださうです。それなのにおかみさんは悲しさうな様子もなく,」という箇所は,「ご主人が二度目の召集で戦死したのださうです。それなのにおかみさんはもう,あきらめたのか,悲しさうな様子もなく,」となっていた。『けなげな娘達』では戦死した夫の死を気丈に耐える妻,という表現がなされているが,『牧師館の少女』では「もう,あきらめたのか」という一文が書き加えられ,戦争を続ける国に対する諦観が強調されていた。
 以上見てきたように,芹沢は『けなげな娘達』を単語単位に至るまで非常に細かく修正し,表現を改めていることが明らかとなった。こうした表現の修正には,戦中の出版規制,戦後の解放,一方では連合軍による民主化の指導など,様々な要素が影響していたと考えられる。
 『芹沢光治良戦中戦後日記』(2015,勉誠出版)には,稿料が入ったこと,脱稿したことなどの覚え書きに混ざって,以下のような記述がある。
 「1942年5月4日『けなげな娘達』を書いているが,はかばかしくない。疲れているせいか,仕事への熱情がないせいか,どうもいけない。」
 「1942年5月5日『けなげな娘達』二十一枚書き終る。余りよく書けなかったが,やむを得ない。」
 この記述からは,物語の後半で強調されるようになっていった,国家のための職業奉公などの描写が,芹沢にとって必ずしも望ましいものではなかったのではないかと想像される。
 『けなげな娘達』に対して具体的にどのような指示がなされたのかについて詳細は不明であるが,戦後に出版された『牧師館の少女』における加筆・修正の跡からは,少女小説が時代の空気に対応し,あるいは流されていたこと,それが作家にとって本意であったのかどうか,といったことを考えさせられるのである。