佐藤春夫『詩集魔女』の校正本にみる本文の改変過程  居郷英司  (2003年10月31日)

歴史部会   発表要旨 (2003年10月31日)

佐藤春夫『詩集魔女』の校正本にみる本文の改変過程

 本文の改変は,初出誌紙とその後の所収本が校合され,校異が示される.原稿が残されている場合や,著者の訂正本があるときは,それらも対象となる.が,原稿が残されていることは少ない.
 原稿がたとえ残っていたとしても,本文がどのような過程を経て改変されたかは,推定の域を出ない.それは,改変過程が記載されている校正紙が,刊行とともに廃棄されてしまうからである.
 入稿原稿と刊本の間における本文の改変は,著者の意図のみによって発生するわけではない.出版物が刊行されるまでには,通常,編集者,組版者,校正者の手を通る.この間に,入稿原稿に潜む著者の間違いが訂されることもあるし,編集者や校正者の賢しらや組版における間違いの見落としもあるであろう.
 著者の推敲による本文の変更は当然ありうるし,また,様々な制約のため,著者の望んだとおりの本文になるとは限らない.これらの変更過程が,校正紙にはすべて残されているのである.
 今回は,このような校正における本文改変の一つのケーススタディとして,発表者が入手した,以士帖(エステル)印社刊,佐藤春夫著『詩集魔女』の校正本の分析をとおして,本文の改変過程を検討した結果を発表した.
 以士帖印社版『詩集魔女』は,限定版であり,校正は「校正の神様」とよばれた神代種亮が行っている.こうした関係から,校正紙が和綴じ製本され「校正本」として残されたものであろう.所有者の変遷も判明している.
 この校正本には,抜けているページはあるものの初校紙と再校紙が,ほぼ残されている.初校紙,再校紙とも,黒インク,赤鉛筆,墨,赤インク,黒鉛筆,の5種類の筆記具が使われている.
 発表者に筆跡についての素養がないために確定はできなかったが,入朱順序と入朱者はおよそ判明したといえると思われる.
 同時に,「詩集魔女」の『改造』一括掲載時と以士帖印社版との校異を明らかにした.変更箇所は,数え方にもよるが95箇所であった.「詩集魔女」の校異は,最新のものとしては『定本 佐藤春夫全集 第1巻』(臨川書店,1999年)があるが,異同は主要なものに限ってであり,すべての異同は明らかにされていない.
 さらに,以士帖印社刊『詩集魔女』の刊行時の状況についても言及した.
 「詩集魔女」は,1926年に佐藤春夫に起きた「魔女事件」とよばれる恋愛をもとにして書かれた詩集であり,数編は先行して発表されたが,1931年7月号『改造』に一括発表され,以士帖印社から同年10月5日発行の奥付で刊行された.
 しかし著者と刊行者・秋朱之介の間に印税をめぐってトラブルがあり,内務省提出は11月4日,帝国図書館への交付は11月13日であった.この2冊とも現物を確認し,奥付の表示はともに「11月5日発售」であった.また,刊本に印刷された部数は発行されていない.
 今回の発表にあたり,歴史部会会長・浅岡邦雄氏と会員の境田稔信氏,田中公子氏の協力を頂きました.
(居郷英司)