中西印刷の技術的変遷
――活版からオンラインジャーナルまで
中西秀彦
(中西印刷株式会社専務取締役,立命館大学・大谷大学非常勤講師)
中西印刷は創業が慶応にさかのぼり,150年の歴史をもつ。木版印刷からはじめて,活版,平版,電子印刷と4つの印刷技法を経験した会社は全国でも唯一と思われる。その中でも活版の期間がもっとも長く,ほぼ100年間にわたって中西印刷の根幹を支えてきた。「活版の中西」は学術印刷分野に数多くの優秀な職人を擁して,日本の学術活動を陰で支えてきた。ことに非ラテン,非漢字の組み版を多くてがけ,独特の文字を使う『ビルマ語辞典』や,すでに滅び去った文字である西夏文字の研究書『西夏文華厳経』などの特色ある印刷物を作成してきた。
こうした卓越した技能を持つ活版印刷も1980年頃には職人の高齢化や手動写植の台頭で維持がむずかしくなっていた。中西が中西印刷に入社したのはそんな1985年のことだった。当時,社長だった父はキーボードから文字を打ち込むと,活字が打たれた順番に鋳造されてでてくるモノタイプという機械に執心していた。モノタイプ自身は20世紀初頭にイギリスで発明され,欧米では広く使われていた。しかしラテン文字アルファベット26文字でよい英語と,カナ,漢字,ラテン文字まで使う日本語ではその困難さは全く違い,実用になったのは1970年代である。父はモノタイプにコンピュータを組み込み,画面の上で文字修正ができ,出力を活字で行えるものを作ろうと,メーカーと格闘していた。
私はまずこの電子活版の機械と取り組んだが,すぐに意味のないことに気がついた。コンピュータで組むのならば,出力をプリンタからすればいい。おりしも,電算写植という機械が登場してプリンタの品質は非常によくなっており,平版で印刷すれば活版と遜色なかった。
印刷は活版であるべきだという父とかなり論争をしたが,結局電算写植一式を導入することにした。1986年である。ただ,当初の電算写植は非常に高価で性能も低かった。一番問題だったのは出力できる漢字数に制限のあったことだ。常用漢字はかろうじて出力できたが,ちょっと複雑なものになるとお手上げだった。ことに1983年のJIS改訂で簡略化した漢字がJIS規格になったため,たとえば「森鴎外」の「鴎」の旧字が出ず,簡略化された「鴎」にしかならなかった。これでは日本文学や中国史の研究書は作成することができない。いきおい,電算写植でできるのは欧文の本に限られる。それでも活版職人から転職した職人の努力で活版と同じ品質のものが作られていく。
しかしそうした苦労もつかのま,コンピュータの性能の上昇と価格の低下はすさまじく,1990年ごろには漢字の作成も自由にできるようになった。集大成として京都大学人文科学研究所の『東方学報』という旧漢字指定の本まで電算写植で作れるようになった。こうなると活版の存在理由はなくなり,1992年6月,中西印刷は活版の幕をおろした。
これだけの変革は職業人として一生に一度かと思っていたが,その後,あっというまにDTPの時代となり,組み版はさらに安価に簡単になった。DTPでは著者が直接組み版できるようになり,印刷会社とのコラボーレーションであらたな印刷工程がつくりだせるようになる。アラビア文字を駆使した『バーブル・ナーマ』といった本が作られていく。
2000年代になると学術書は根本的な変革の時代にはいる。紙の消滅である。インターネットで流通するだけで紙の本をださないオンラインジャーナルは特に理系の世界で急速に普及していく。こうなると表面上の組み版はあまり意味をもたず,文書の構造記述を主体とした構造化組み版という時代にはいる。これから本と組み版はどのようなものになっていくか予想がつかない。
※2013年度第5回研究部会,参加者22名(会員10名,非会員12名),会場はハイテクセンター。
(文責:中西秀彦)