リレーエッセイ:思い出の教科書・思い出の本[1]
戦後教育第1世代の読書環境
植田康夫
昭和14年4月から15年3月にかけて生まれた人間は,昭和21年4月に小学校に入学したので,純粋の戦後教育第1世代と言ってよい。14年8月生まれの私も,その世代に属する。しかし,この世代は小学校1年生の時,なさけない体験をしている。それは,せっかく小学1年生になりながら,終戦直後の物資不足のため,新しいランドセルも買ってもらえず,服を新調してもらったという記憶もない。
そのうえ,学校に行くと,最初,前年の1年生が使った教科書を配布されながら,すぐに戦後の教育にふさわしくないという理由で回収され,その後に配布された教科書は,新聞紙を折りたたんだ体裁のもので,ハサミで折れ目を切って,自分で製本しなければならなかった。印刷も単色で,今のようにカラー印刷の教科書ではなかった。
そんな貧しい純粋戦後教育第1世代がカラー印刷による出版物に接することができたのは雑誌であった。その雑誌は,「ぎんのすず」という題名で,低学年向けと高学年向けがあり,高学年向けは漢字で「銀の鈴」と表記されていた。
私は,小学校の1年生から高校3年生まで,島根県の片田舎に住んでいたが,この雑誌は広島に本社のある出版社で発行され,学校で教師が注文を取って販売していた。その「ぎんのすず」を,毎号であったかどうかは忘れたが,私も買ってもらった。小説や学習記事,読物などが掲載され,広島で発行された雑誌でありながら,内容が充実していた。
『銀の鈴』6年生 |
出版学会の大先輩である金平聖之助さんによると,この雑誌は戦争のために東京から疎開していた作家や画家を起用していたので,東京の出版社で発行された雑誌と見劣りのしないものを作り得たという。この雑誌が私を雑誌の世界に導いたのであるが,残念ながら発行元が倒産したため,休刊となった。それ以後は,東京の出版社である講談社発行の「少年クラブ」などを読むようになったが,当時の児童雑誌の定価は90円位で,今の物価に換算すると,結構高かったので,年に数回しか買えなかった。こんな読書環境が活字に対する欲求を生み,現在の私を作ったと言ってよい。
(上智大学名誉教授・読書人取締役編集参与)