■大宅壮一の記録文学――『日本の遺書』の成立と意義を中心に
(2011年5月 春季研究発表会)
阪本博志
昭和30年代に「マスコミの帝王」と呼ばれた大宅壮一(1900-1970)の占領期の活動に関する研究は,空白の状態が続いてきた。今日まで大宅の評伝においてこの時期について言及されるとき,必ずと言ってよいほど参照されてきたのは,大宅壮一全集編集実務委員会編『大宅壮一読本』(大宅壮一全集別巻,蒼洋社,1982年)所収の「大宅壮一年譜」である。しかしこの年譜の占領期の記載には事実誤認が複数見られる。それに対し報告者は,2011年3月に発表した拙論「占領期の大宅壮一――「大宅壮一」と「猿取哲」――」(『Intelligence』第11号,早稲田大学20世紀メディア研究所)の第2節において,その詳細な検証を行った。
具体的には,従来の通説では,農耕生活を送っていた大宅が1948年から1949年にかけて「猿取哲」名を用いジャーナリズムに戻ったあと,本名の「大宅壮一」での再出発をはかったという構図が見られた。それに対し報告者は,敗戦後から「大宅壮一」名を一貫して用い,1948年から1950年ごろまで「猿取哲」名も並行して使用していたという構図を新たに示した。
そのなかで明らかにしたことのひとつに,小説『日本の遺書』(ジープ社,1950年)の初出の連載期間がある。年譜では1945年に『読物街』(正確には,高島屋出版部発行の『小説読物街』)に連載されたことになっているが,同誌を最も所蔵している財団法人日本近代文学館で調査を行った結果,1949年12月号から連載が始まっており,1950年1月号にその続きが掲載されていることが判明した(1月号では「(つづく)」となっている)。そのあとの号の所蔵がないため現物での確認はできなかったが,単行本『日本の遺書』の奥付に5月15日印刷・5月20日発行とあることから,連載後比較的短期間のうちに本にまとめられたことが推測される。これは,戦後大宅が単独で著した初めての書物である。
本発表は,この知見の延長上に,大宅の作品の中でもこれまであまり注目されてこなかった『日本の遺書』に新たに光を当てるものである。この作品は,近衛文麿の生涯を描いた未完の小説である。『小説読物街』掲載時には表紙にタイトルが大きく記載されているほか,誌面においても,折込の挿絵が存在していたり,複数の著名人の推薦文が掲載されるなど,特別の扱いを受けている。また,連載初回のリード文の中では「戦後文壇に於て猿取哲の覆面を以て世人を震撼せしめた論壇の雄,大宅壮一氏が多年の秘蔵資料と綿密なる調査に基き刻(ママ)明なる描写と流麗なる文章を傾けた作者必死の一大警世作である」とされている。先述のように大宅は,1948年から1950年にかけて「大宅壮一」の本名と「猿取哲」のペンネームを使い分けて活動していた。雑誌掲載時の模様からも,大宅のペンネームを捨てての再出発にこの作品を位置づけることができる。さらに単行本化に際しては上記推薦文も収録された。具体的には,掲載順に吉川英治,尾崎士郎,馬場恒吾,後藤隆之助,阿部真之助の5名によるものであるが,うち2名が「資料の蒐集に異常の努力が払われて」(馬場)いると述べている。また「あとがき」には,近衛の関係者たちに「一方ならぬ援助をうけた」旨が記されている。これらのようにこの作品の成立過程には,文献資料の調査やインタビューによるところが大きいと言えよう。
この1950年から大宅はジャーナリズムに本格的に復帰した。翌1951年ごろから,現在の財団法人大宅壮一文庫のもととなった蔵書の本格的な収集が始まっている(前掲年譜も参照)。1952年に書き下ろしで刊行された『実録・天皇記』(鱒書房)は,草柳大蔵の補助のもと膨大な古書を収集し執筆されたものである。1955年頃から「マスコミの帝王」と呼ばれた大宅は,「大宅工房」と呼ばれたその書庫をいわばデータベースとして活動した。
これらに鑑みると,『日本の遺書』の『小説読物街』における発表は,大宅の再出発の時期に位置づけることができる。さらに,このようなデータの収集とその活用という点からも,『実録・天皇記』との連続性ひいては1955年以降の活動との連続性,ひいてはライフワークとした『炎は流れる 明治と昭和の間』(『サンケイ新聞』1963年1月1日付から1964年10月3日まで連載。単行本は,文藝春秋新社,1964年)との連続性が明らかであろう。ちなみに『炎は流れる』も,未完に終わっている。