白井喬二「新撰組」と『サンデー毎日』の関係性を再検証する 中村 健(2010年11月 秋季研究発表会)

白井喬二「新撰組」と『サンデー毎日』の関係性を再検証する 中村 健 
(大阪市立大学学術情報総合センター) (2010年11月 秋季研究発表会)

 週刊誌の草創にあたっては大衆文学が深く関わっている.『サンデー毎日』『週刊朝日』両誌とも「読物」を取り入れて部数の安定化を図ったのであるが,その嚆矢として,よく知られるのが,『サンデー毎日』に大正 13年 5月から大正 14年にかけて連載された白井喬二「新撰組」である.

 これについては,「『サンデー毎日』はその年の大正 13年 5月 25日号の巻頭に,白井喬二「新撰組」を載せた.これまでの常識を破って,連載小説を大々的にトップに掲載し,金森観陽の挿絵を思いきり派手に大きく扱って,読者をあっと驚かせた.
これがたいへんに受けて,以後は呼び物の連載を巻頭に載せるようになり,『サンデー毎日』の型ができ,また同時に一つの雑誌の色彩を決定づけるようになっていった.」(野村尚吾『週刊誌五十年 サンデー毎日の歩み』毎日新聞社,昭和 48年,46~47頁)というのが一般に膾炙した評価といえよう.ただ,ここでは,両者に深い関係性があったという事実は述べられていても,その特質や両者が結びついた理由が述べられていない.また「新撰組」の評価についても大衆文学研究者による「奔放な想像力の産物」といった文学的な考察はあっても,週刊誌という掲載媒体との関連性に言及していない.
 本年(2010年)は白井喬二没後(1980年没)30年にあたり,『サンデー毎日』は 7月に 5000号を迎えたという節目の年である.筆者は昨年末に勤務先の大阪市立大学学術情報総合センターに毎日新聞社から『サンデー毎日』を寄贈されたことにより,現物を改めて確認する機会を得た.それらを閲覧した結果この事例は,週刊誌というメディアの特性と白井喬二の作家性が見事に融合して生まれた成功であり,白井以外の作家が起用された場合,成功は難しかったのではないか,という印象を受けた.そこで,『サンデー毎日』の連載誌面および,広告が掲載された大阪毎日新聞を調査対象とし,以下,その意義を検証した.

1.『サンデー毎日』の編集について分かったこと

・本誌の売り上げが悪く廃刊も視野に.その打開策として売れ行きのよかった増刊「小説と講談」の編集方針=読物を大きく取り入れた.(一般に知られた説で本論の前提)
・同誌は新聞の日曜版付録が起源.大正13年 6月に東京雑誌協会と覚書を交わし,雑誌として扱われるようになる.新聞の付録→雑誌へ形態が変わった.
・創刊当初は週報=新聞一週間分の要約が多く,編集面でも雑誌の姿を模索していた.
・巻頭連載小説の情報量(文字数)を新聞,月刊誌と比較すると,新聞夕刊の小説の一週間分,月刊誌の数倍の情報量(一か月分で比較)が掲載できた.大きな情報容量を持つ.
・タブロイド判なので挿絵が大きく掲載できた.挿絵画家の事情だけで連載休載にも.

2.白井喬二の評価について

・編集部員だった渡辺均と伊集院斉は白井作品の特徴として、として「考証」「テーマ性」を挙げている.「考証」部分は独立した読物としても面白く知識階級にもアピール.大衆文学の成立期に考証という情報を掲載する書式を備えていたことは注目できる.
・同時代の作家と比較すれば,大毎掲載の広告文言から前田曙山より白井に対する期待が大きいことが読み取れる.

3.従来の説に対する補足点

・連載回数56回と言われていたが,実際は本編55回+梗概1回が内訳である.
・同誌の巻頭に連載小説を掲載したのは本作が初めてではなく,大正11年1月から連載された吉井勇「夜烏物語」の初回,10回は巻頭掲載である.レイアウトが違う.
・大正13年冒頭から巻頭に小説を持ってくる計画があった.
・同誌では本篇を「大衆文芸」だけでなく「軽文学」という名称でカテゴライズしている.

4.結論

 当時同誌は新聞付録から雑誌としての編集方針の確立時期にあたっていた.誌面が新聞夕刊連載小説と比べて一週間分相当,月刊誌と比べても数倍の情報量を掲載できた.そのため,白井喬二のような豊かな想像力と複雑なストーリーを作れる作家が必要だった.同時に挿絵が効果的に掲載できた.編集部は,白井について,考証とテーマ性を高く評価していた.この部分は雑誌メディアの興味を記事で訴えるという部分と相性がよく,雑誌としての個性を打ち立てる時期にはぴったりの作家性であったことが指摘できる.
 成功の理由は,巻頭に時代小説を持ってきたというよりは,①白井喬二という作家を起用し,②大きな挿絵など巻頭用の編集を行ったこと,が成功につながったという結論を得た.